その7・計算と間違いの効果


「で」
 ずずっと緑茶を飲みながら片足を立てた長身の硬派系美男子は、ぐたっと疲れた様子で聴いてきた。
「どうするわけ、これから?」
 疲れたのは、いきなり荒城真由美が尋ねてきた事と。姉であり、かつては自分自身だった香流の言動のせいだ。そして、廉が密かに心の底から香流の無頓着と天然ぶりに心配してるのが、伝染したかの様に痛みを伴っているのを自覚した結果だ。
「どうする、とは?」
 優雅な仕草で細い指が、丁寧に緑茶を入れる姿を認める。
 つい一年も立たない前は、あの肉体が自分自身だったのだと思うと妙に気恥ずかしいと言うか疑問と言うか不思議な感じだ。
 何しろ、今でも朝起きてから寝るまでに鏡を見る度に不思議で堪らないのだ。
「荒城さんの問題は……従兄弟殿に事情を話さずにどうにかしてもらうのは面倒だよね、どう考えても今は比良よりも香流に固執してる様に見えるし。内藤君に関しても、比良に勝負を挑むか香流に交際を申し込むかで対応が違ってくるとか、そう言う事じゃなくて?」
 隣家の廉に関しては……見てくれからして何を考えて居るのか未だによく判らないと言うのが双子の共通意見だ。笑っている様に常に見えて、怒ったり悲しんだりと言うのを上辺のポーズ以外で見たことはほとんどない……のに、双子の中身が入れ替わるなどと言う突飛な事が起きても平然としているのだから、神経を疑ってしまう。まあ、ショックはそれなりに受けた様ではあったが。
「ああ……バンドで有名なRENだっけ?」
 インディーズバンド「Blue moon」といえば、この辺りでは結構名前が知られている。メジャーデビューもするのではないかと言う噂が出回るくらいだが、実際にはどうだか噂程度にしかこの三人にはよく判っていない。
「廉と名前が似ているから改名を希望したが、却下されてしまった事がある」
「確か『面白いからぜってえ変えねえ』だっけ?」
 荒城蓮太郎は、同じ学校の同学年だ。友達かと問われると、どちらかと言えば蓮太郎と仲の良い月野多紀と言う女子生徒の方が繋がりはある。とは言っても、そちらも直接のつながりは無く武士羽香とのつながりの方が余程強いのが問題だ。
「良い性格だな、そいつ……」
「バンドでの名前だから、そんなに直接困ることって少ないのが唯一のラッキーなんだけどね……でも、たまに間違われる」
「嬉しそうに言うなよ、廉も相変わらず良い性格だよな」
 廉自身は全く関係がないのだが、たまにファンの女の子に間違われてしまうと言う事がある。そう言う時、本人の所まで知らせに行った事があるのだが蓮太郎には妙に面白がられてしまったのだ。
「もっとも、本人には『そっちのお兄さんだったら面白かったのに』とか言ってたんだけどね。僕にしてみたらそうじゃなくて良かったって今なら思うよ」
 そっちと言えば、当然っぽく比良の事だ。
「あれ、荒城蓮太郎って同じ中学出身?」
「違う。たまたまの偶然だ、私……正確には当時の私が出稽古の時に……まあ、それはさて置き真由美も旗志君もそんなに大げさに事を構える必要はないのではないかと思う」
 少しばかり、香流が嫌そうな顔をした。
 何やら、二人の荒城については香流はこれからも苦労させられると言う事を肌で感じて知っていると言う事なのだろうか……好意であろうが敵意であろうが、今の香流にそんな余裕はない。
「しっかし……俺、あんな可愛い子知らないなあ?」
「香流だった頃から可愛い女の子のチェック、してたんだ?」
 生まれた時、香流と比良は今の状態だった。
 ただ、生まれて数年たってからいつの間にか香流と比良の精神と肉体は入れ替わっていた。今の状態に戻ったのは、つい最近で二人ともかつては今の状態だったことを覚えていない状態だったくらいだ。
「うん、まあ……ほら。可愛い女の子だったら側にはべらせてても見た感じ良いし?」
 これが男性の肉体を持ってる時に言ったら、単なる女の敵になってしまうものである。
 香流と言う女性の肉体をもっている頃にしていた思考だから、これはまだ冗談の域だったわけであり。
「つまり……今も思ってる?」
「まあ、男ですから……今は……少しだけだけどね!」
 流石に、幾ら姉と幼馴染だけが相手とは言っても内面を晒すのは抵抗があるのだろう。
 少しばかり顔を赤くして、照れた様な。それでいて困った様な感じだ。
「真由美は、中学の頃はおとなしい感じの女の子だった。派手でもない、群集の中に居てもさして目立つ存在でなかったのは確かだ。
 今の状態になったのは、恐らく高校へ進学してからの事だろう」
「ふうん、高校デビューって感じ?」
 経験だけは金では買えないというが、それを比良は心の底から実感している。
 かつて、香流だった頃に比良と同じようにお稽古事をさせられた事があり。比良は真面目に、ひたすら真面目に、香流の分までやってるのではないかと思うほど真面目にお稽古に励んでいた。祖父が文字通り「叩き込む」と言う風にしていたので、香流も基本的な事を多少は出来るけれど、幾ら香流から比良の肉体に変わったとは言っても、やはり根本的な所がきちんと出来ていないので。かつての比良ほどには今の比良では行動をする事が出来ない。
 逆に、比良であった頃の経験が物を言うのか本人曰く「全然ダメだ」との事ではあるが、周囲の見た目からでは格段の成長を遂げている様に見えて堪らない。
「どうした、ため息が多い様だな」
「いや……なんでもないよ、姉さん」
 少しでも気分を下げないようにしようと頑張ってみたものの、何が気に食わないのか香流が反応していた。
 こう言う所は肉体に作用されるのかも知れない、などと男二人は思う。
 判っていないのは、当の香流ただ一人なのだ。
「……そうか」
 とても我慢しているのが、見て判る。
 だが、以前は……比良であった頃の香流は、ここまで感情が表面に出ている事はなかった。これは肉体の違いなのだろうかと言う気がするが、それを本人に言えば何か恐ろしい事が起きそうな気がするので決して言うことは出来ない。
 それにしても……ポーカーフェイスをしやすいと言う点では比良の方が楽だと言う事をつくづく感じてしまう。
「ところで……廉、帰らなくて良いのか?」
 そろそろ良い時間だ、朝の早い二人にとっては今の時間ですら十分に遅い。
 どちらかと言えば、香流にとってはだが。
「チビ達が寝た頃を見計らって帰るよ、今帰ると紅葉母さんの夕飯とチビ達の風呂に勝ちあたりそうだから」
 廉が今の母親……向坂紅葉を母として迎えたのは、今の双子の弟妹の年齢と同じ6歳の頃だった。廉は意外にもあっさりと新しい母を迎え入れたのだが、すでに当時は紅葉の中には新しい命があった。
 すんなりと受け入れられたからだ、と言ってしまえばそれまでなのだが。これと言った反抗期もなにもなく、すんなりと成長してしまった廉を心配する人は僅かだ。
「お前も大変だなあ……俺だったら年齢の離れた兄弟って抵抗ある」
「他所様の家の事を、あれこれ口を出すな」
「いや、他所様って言っても向坂家だよ? 隣だよ? ほとんど我が家も同然じゃん」
 実際の話、久樹家と向坂家は家の垣根すらほとんどないも同然だ。
 歴史を辿れば向坂家は久樹家の敷地の中に作られたと言う話もまことしやかに囁かれているので、そう言う意味からすればおかしな話でもない。
「まあまあ……そりゃあ、確かに兄弟が双子とは言わなくても年子くらいだったら良いんじゃないかって思う時もあるけど。そうしたら、年齢的に逆算したら困るでしょ?
 だから、今くらいが調度良いんじゃない?」
「そりゃそうかも知れないけど……」
 子供達の思惑は複雑だ、年齢が近いか遠いかだけでも話題は尽きない。
 そこへ、前妻の子である廉と後妻の紅葉の子供達である晶と章と言うだけでも話題は更に盛り上がってしまう……別に、廉達の父親である義人は女遊びが激しいと言う話は聞いたことがないけれど、だからと言って実際にどうかと聞かれたら廉ですら答えるのは難しいだろう。
「どちらにせよ……問題の大きさから言えば、これ以上。話が広がる事を懸念するべきではないだろうか?」
「いや、バラした張本人に言われてもねえ……」
「ならば、廉はどうするべきだったと思う?
 こう言っては何だが、あの二人は一筋縄ではいかない。真実をひた隠しにしたままで適当な事を言ったところで、結局は最終的に知られてしまうだろう」
 そう言えば、と廉は思う。
 中学までの比良は、表立ってモテる事は無かったし告白をしてくる様な子も滅多に居なかったが。だからと言って、全くいないと言うわけでもなかったし。そう言う子に限って一筋縄ではいかない様な子が多かった……傍目で見ているだけでは面白がっていれば良かったし、比良も特にそれでこれと言って言うこともなかったから気にしなかったが、実際にはそうそう気楽にしている事も出来なかったのだろうと言う気がする。
「そうだなあ……難しいな、確かに」
「廉の裏切り者ぉ……」
 比良としては、あまりこう言う事をバラすのは得策ではないと思っている。
 ただでさえ、これまでの友達のほとんどを切り捨てなくてはならなかった……恋愛関係に発展している相手が居なかったのは唯一の救いだが、それでも気になっている男が居たことは事実だし。香流は顔つきも可愛らしい部類に入るし体系が華奢なので、それなりにモテて居た事も事実だ。
「裏切ってないよ」
 なのに、香流となった比良はそう言う男関係をばっさり全て断ち切った。その神経が、今でも比良にはよく判らない……おまけに、香流がそう言う態度で居るのに「男だったら一度はしてみたかったリスト」の上位に入るナンパをしたくても出来ない状態だ。
「なんだよお、中学までは俺の方に傾いてたクセに!」
 八つ当たりだと言う自覚はあったが、このまま香流に主導権を握られっぱなしと言うのも気に食わないのは事実だ。
「当時は香流が比良だったからなあ……」
「このホモ野郎!」
「今は比良が香流だからなあ……」
「何をしみじみと考えてるんだよ……」
「色々」
 最後には笑いながら言う廉だが、香流と比良にしてみればたまったものではない。
「廉、あまりソレで遊んでからかって苛めるな。
 お前も、あまり廉に遊んでからかって苛められる要素を作るな。
 二人とも、全くもって幼い頃から変わらないな……とにかく、ただでさえ不安要素は常にある。そんなに情けない様であるのならば、お祖父様に頼んで鍛錬の時間を設けていただくしかないのではないか?」
 香流の言葉に、男二人が揃って首を横に振って「ノーサンキュウ」と態度で示す。
 未だに現役街道を貫く双子の祖父は、そのあまりの厳しさに本気で指導すると言う事がほとんど無くなっている。ただし、やはり身内にはそれなりに厳しくて指導を頼むと情け容赦と言う言葉はない……孫娘である香流ですら、生傷が絶えないので指導は週に一度にしてもらっているくらいだ。
「お前、お祖父様が嘆いて折られたぞ」
 僅かに眉をひそめるのは、比良の頃からのクセの様なものだ。
 あまりにも眉をひそめる事が多かったのが一時期あった事から、他人事ながら「跡になるのではないか?」といわれる事も結構あった。今は、どちらかと言えば表情が動かなくなった氷の様だと言われるけれど、決してそんな事はないのを二人は知っている。
「だってなあ、じい様の特訓激しすぎ……あんなの耐えられないって」
「私は、毎日でもお願いしたくらいだった」
「そりゃ無理だって」
「確かに、結局はお祖父様も……体力を考慮されて三日に一度にして下さった」
 ただ、それは朝の早い時間だけだったし。今では週に一度にされてしまった。
 孫娘の自堕落な生活が改善されたのを一番喜んだのは祖父だったが、孫息子の堕落した生活を一番嘆くのもまた、祖父だった。
 両親は、子供達の自主性に任せていると言えば聞こえは良い。
「年寄りの方が体力があるってのは……どうなんだろうな? 廉?」
「なんで僕に聞くんだよ……まあ、子供の頃に培った生活様式の違い。つまり、経験値の差って奴なんだろうね」
 比良の「医者の息子だろうが」と言う台詞と「医者の息子であって、僕は医者じゃないんだけどね」と言うやり取りを聞きながら、何やら香流が考え込み始めたのを比良は嫌予感を持って聞いてみる。
「あのう……香流? 何考えてるわけ?」
「いや……お祖父様の鍛錬の時間を増やしていただこうかと……」
「わ、わ、ダメ。却下っ!」
 香流の言葉に激しく反応したのは、比良だった。
「……どうした? 何をそんなに慌ててる?」
「自分で何を言ってるか、判っててそんな事言ってるわけぇっ?」
 心の底から香流は「判らない」と顔に書いてあるままの表情になっているが、それはこの二人とか身内でなければ判らない程度の反応だ。
 やはり、人は肉体的な外見だけではなく中身も重要だと思わされる。
「香流は自分の価値を判ってない!」
「何をいきなり……」
「いきなりじゃないし! あたしだってねえ、これまではこの体に慣れたりしないといけないとか急に環境変わってびっくりだとか、色々あったんだからね! ホルモンのバランスが崩れなくなってきて良かったなあとかニキビ出来なくていいなあとかあったけど!」
 香流にしてみれば、いきなり切れた弟に対して面食らって仕方が無い。
 廉にしてみれば……実は薄々気づいていたとか想像していたとかあるのか、少しばかり笑っているのは本気な部分の様だ。
「比良、言葉遣いが女になってるぞ」
「うるさい!」
 廉の忠告の通り、今の比良はまるでかつての香流だ。
 彼女から彼になっても、今でも興奮したり我を忘れたりすると女言葉が出てしまう……比良にとって数少ない悩みなそんな所だ。他の事はかなりうまくやっていると言う自覚があるのだが、妙に興奮するとオカマみたいな言葉遣いでこのガタイなのだからギャップが激しいでは済まない。
「大体ねえ! 香流の体って華奢なのよ、男が見たら『守ってあげたい』って思わされるほどキュートにしようと思えば幾らでもキュートに慣れるの、小悪魔にだってなれるのよ。少なくとも、あたしはその路線でずっと通してきたのよ!
 それなのに……ああ、それなのにぃっ!」
 正座を崩している状態なのでそうでもないが、きっちりと正座をしている香流も。胡坐をかいている廉も、平均値よりはるかに高い身長を持っている比良が我がままばりにヒステリーを起こす姿は……気持ち悪いの一言に尽きる。
 香流にしてはいわんや、かつての自分自身だったと言う過去がなまじあるだけに心中複雑なのは言うまでもない。
「まあ……それは、なんと言うか……ねえ?」
 複雑そうに笑う廉は、そう言って話題を振っては見るものの。
 香流がぴりぴりした空気を身にまとい始めたのを見て、ぎょっとした。
「平気で朝から暴れるし、平気でノーメイクするし、平気で傷だらけ! 愛想のあの字もなければ、なんだってそう無愛想この上ないのよ!」
「ひ、比良、ちょっと待て……!」
 慌てて廉が止めようとするのだが、すでに暴走を始めた比良はそんな廉の声も氷のように冷めた表情が酷くなる香流の姿も目に入らない。
「男なんてねえ、ちょっと女が可愛い子ぶりっ子して。少しでも流し目とか上目使いとかしてねえ、おねだりしてあげれば大抵の事はいう事聞いてくれたりするのよ!
 それなのに……ああ、それなのになんだってそんな勿体無い無駄な使い方しかしないのよ! そんなに良い素材があるのにずるいのよ!」
 ばしん、と叩かれたちゃぶ台が悲鳴を上げるように聞こえた。
 だが。
「黙れ」
 廉が横で「あちゃあ……」と額に手を当てるのと、比良が背筋に走った何かにびくりとおびえるのは、ほぼ同時だった。
「こ、こう……る?」
 怯えながら、目線で廉に「なんで放っておいたんだよ!」と語っているのだが。
 廉にしてみればやる事はやろうとして、比良が視界に入れなかったのだから良い迷惑でしかない。
「なんだ?」
「お、怒ってる……お姉様?」
 ぴくり、と香流の眉根が微妙に動いたのを廉も比良も見逃さなかった。
 ただ、どうして怒りが増したのかは判らない。
「そうか……確かにそうだな」
 昔から、本当に「怒る」と言う状況になったことは数えるほどでしかない。
 大体が自分自身に関わることではなく、その周囲がとばっちりを受けた時に限って。しかも見た目からして怒っている様に見えずに色々としていたから誤解されがちだが、感情そのものはきっちりあるのだ。
「正直……私はお前を叩きのめしてやりたいと思っている。
 私が鍛えた体で、お前がしている事の全てが気に食わない。
 お前が、私の久樹比良と言う存在で居る事の全てを認めたくないとすら思っている。出来る事ならば、今すぐお前をその体から追い出してしまいたいと……」
 レベルの高い鍛えた武道家と言う存在は、その気迫だけでも周囲に影響を与える事が出来る。実際、双子の祖父も比良だった頃の香流も本気であれば眼力だけで恐怖を与える事は出来るし出来た……だが、本当は武道家でなくても気迫だけで人を恐怖に陥れる事くらいは出来ないわけではないのだ。
「そ、そんな事言われても……入れ替わったものはどうしようもないんだし……」
「私の体を返せ!」