その6・探求と行動の成果


 香流は、親しい人でなければ判らないほどの僅かな動きではあったけれど。
 目を見開いて驚いている様に、見えた。
「どうしたの、香流?」
「……少々、悔しいのかも知れないと思っている」
「なんで?」
 廉が、笑っている。
「今しがたまで、旗志君と一緒だった。
 私の事を『危険だから送る』と言って聴かなくてな……私が何者なのか、知っていてもそう言った。ところが、そこまで来て帰った。
 私は……鈍っている様だ」
「それはない」
 大抵の場合、廉は笑っている事が多い。
 だが、それは廉の基本が笑っている「様に見える」と言うだけであって。その本質が決して笑ってばかりいるとは限らない事を香流は比良の頃からの長い付き合いで、知ってる。
「香流は努力している、全てが変わってしまった現実を差し引いたとしても。僕なら、きっと耐えられないと思うよ……見慣れてるけどね」
 少し、廉が苦笑した。
「そうだな……幼子から熟女まで選り取り緑と言う所か?」
「香流、やっぱり体が変わったら性格も変わったかも……。
 言ったんだ、彼に?」
「ああ……」
 僅かに表情を、お互いが判る範囲で変えて。
 同時に、それは浅い付き合いや知らない人には判らないほどのポーカーフェイスで。
「彼は、私が自分自身で相対しなくてはならない人だから」
「なんだか、非常に惚気を聴かされてる気分なんですけど? 香流さん?」
 どうして二人が、お互いの家の中に入らず道場でもなく、外で立ち話をしているのかは本人達が一番よく知らない。
 もっとも、ここが往来のほとんどいない道ではなくて商店街のど真ん中とか。幹線道路の脇とかならば話は違ったのだろうが、こう言うことはあまりなかった。
「惚気? 何故?」
「香流……やっぱり、なんか一人にしておくの心配なんだけど……」
「廉、私は確かに未熟だが。以前よりは遥かにマシだと思う」
 憮然とした物言いの香流に対して、廉が心の底からため息をつきたくて我慢しているのが判った。
「腕っ節とかの問題じゃなくてさ……香流は、これま男の中に居たからそのままで良かったんだけどな……まあ、これが社会人になっていきなりOLとかになってからでなくて良かったとは思うけど」
「……廉は、時々意味不明な事を言う」
 更に憮然とした表情になるのは、香流には理解出来ない話だからだ。
 普通、姉とか弟が居る家庭の男と言うのはある程度は女性心理なども理解出来る筈だ。
 実際の問題として、廉にも半分血の繋がった妹や。年齢が結構近い義理の母親と言う存在のおかげでかなり女性を相手にする時は親切丁寧がモットーで、女生徒からの人気は結構あると言うのも知っている。中学の頃までの比良みたいなクールで硬派と言うのも人気の一つではあるが、やはり優しい男子と言うのも人気は高い。
 にも関わらず……かつて、比良だった香流がここまで無邪気と言うか無頓着と言うか、状況に対して察しが悪いのはどこで教育を間違えたのだろうか?
「あ、廉ちゃんに香流ちゃんだあ」
「廉はともかく、香流姉さんお帰りなさい」
「晶、章……」
 古い、趣のある木造の壁は歴史を感じさせる大門を中心としている。
 脇には、小さいとは言っても子供くらいならば屈む事なく入れる潜り戸がある。
 大門は普段、道場がある事もあって開門時間はあるのだが。今は時間が時間なので閉められている。社会人の為に夜間の訓練のある時もあるが、今日はその日ではない。
「晶……お前、相変わらずお兄ちゃん相手に可愛くないなあ」
「ホモの兄を持った覚えはないぞ!」
 どきっぱりと断言する、向坂家の次男坊。双子の片割れである晶……名前はアキラであってショウと呼ぶと嫌がるのが特徴だ。
「誰がホモだって……?」
 流石に、そう言う言い方をされるのと6歳児を相手には笑顔の仮面が緩むらしい。
 ファンが見たら、間違いなく惚れ直すか恐怖のあまり逃げ出すかのどちらかになるだろうと言う気がするのだが……それを忠告する人物は存在しなかった。
「廉が。今でこそ香流姉さんに鞍替えしたように見せかけて、実際は比良兄さん狙いだって言うのは先刻承知なんだからな!」
 びしっと指を突きつけて宣言する弟の言葉に、内心で眩暈を起こしそうになる廉の姿を見てはいたのだが……香流と言えば、晶とは双子の妹である章がにこやかに話しかけてくるので反応をしていなかった。
「香流ちゃんって、いつも可愛いよねえ」
 6歳の女児は常に、何やら多少間延びをした言い方をする……その分、双子の兄がシャープだから良いのだろうか? と言う気もしないでもない。
「そうか……?」
「うん、名前も可愛いもん。あたしも、ショウなんて名前じゃなくて、せめてショウコが良かったなあ。同じクラスにね、ショウコちゃんってすごい可愛い子がいるの」
「章が可愛い名前かどうかは判らないが、章は可愛いと思う。何より、その名はとても格好が良いと思うぞ」
 子供を相手にするには硬い感じがするしゃべり方ではあるが、態度が真摯であるのは章にも判ったのだろう。
「格好いい? そうかなあ?」
「ああ……中国の歴史を表す年号であったり、全体の構成の中で区分けをする役割を担っているが。記しであると言う話もある」
「しるし?」
 きょとんとした顔つきは、香流と比良の様に晶と章もよく似ている。
 晶と章は一卵性で、香流と比良は二卵性なのだから晶と章ほど似ているわけもないとは思うのだが。やはり、夫婦ですら言動や顔つきも似てくるのだから。二卵性であろうと、どうしたって顔つきも似てくると言うものなのだろう。
「そうだ、人を導いたりする事が出来る。そう言うものだ。
 章も、世界中とまでは行かなくても。たった一人の誰かを見つけられると良いな」
「たった……一人? 晶みたいなの?」
「晶でも構わないが……それは、これから章が自分自身で決めなくてはならない」
 とても難しい事を言われているとは思うのだが、それがどう言う意味なのかまでは6歳児に理解しろと言うのは難しい話だ。
「比良狙いって……お前なあ……」
 確かに、幼い頃から廉は比良と一緒に居る事が多かったのではあるが。
 かと言って、周囲には「親友」扱いはされても「同性愛者」と言う扱いを受ける事はなかった。こんな事を言うのは、半分だけとは言っても血の繋がっている廉の弟だけだ。
 もっとも、からかうと言う名目の元で言ってくるからかいの声ならば聴いた事があるが。それも冗談だと判っているレベルだからと言う問題なわけで、晶は違って本気で言ってる。
「うるさい、お前みたいな馬鹿にお前呼ばわりされたくない」
 舌の周りの良い、6歳児である……。
「晶……どこでそう言う台詞を覚えてくるんだ?」
「待合室でぇ〜」
「章、余計な事は言うなよ!」
 顔を真っ赤にしている所から、どうやら章の言っている事は間違えてはいないらしい……向坂医院の待合室は、基本的に子供達は立ち入り禁止だ。婦人科などもあるが病気の人が来る事だって少なくはないのだから抵抗力の弱い子供は、ただでさえ遊び場ではないのだから家族や身内は自宅の方にしか立ち入りが許されないのは当然とも言う。
「へえ、ほう……ふうん?」
 よくも悪くも、外面の良い廉がジト目で誰かを睨むのは身内扱いされている人の中でも。本当に心を許した相手だけだと言うのは、章にはまだ判らないかも知れないけれど香流には判っていた。
「な、なんだよ変態!」
「誰が……ホモで同性愛者の変態だって?」
「まあ待て、廉」
 ふと、珍しく香流が廉と晶の兄弟喧嘩と言う名前のじゃれあいに口を挟んだ。
 これは、とても珍しい事である。
「香流姉さん!」
 SOSを求めんばかりの勢いで希望の光を見出した晶ではあるが、まだまだ6歳児に香流を理解するのは難しい事だった様である。
「なんだよ、香流……」
「変態は一般社会の偏見的には問題があるが、法律には触れないので大きな問題に発展するのは時間がかかると思うぞ」
 章はきょとんとした顔で香流を見つめていたのだが、廉はずっこけかけていた。
「……ナニソレ?」
 晶も何を言っているのか判らないと言う表情を作りたかったのだが、それによって廉に馬鹿にされるかも知れないと言う判断を下したらしく呆れたような。失敗した作りの顔になっている事に、どうやら本人は気が付いていない様だ。
「良いか、晶。
 そう言う『社会的に性癖に問題があって世間に顔向けが出来ない』と言う意味の時には相手が法律に触れて実刑判決を受けると判断した相手に限っては、変質者と言う言葉が適切だ。同性愛者は、必ずしも変質者と言い切ることは難しいので判断が仕切れないと言う現実があることは確かだが……」
「香流姉さん、何言ってるか難しくてわかんないよ」
「と言うよりも、何を6歳児に吹き込みたいわけ……?」
 全く持って、その通りである。
「何を言っている、二人とも。
 何歳であろうと『正しい知識』は必要な事だ、私もアレも。祖父から長年に渡って御教授をされたものだ……何なら、生まれて直ぐの頃からの記録とか言うものがあるぞ」
「そう言えば、おじさんってビデオマニアだっけ……」
 記念イベントが起きるたびに、久樹家では双子の父親がカメラを持って飛んで回るので。少なくとも双子のイベント用記録には、全く持って事欠かないと言う嬉しいのか嬉しくないのか、よく判らない事態がある。
 しかも、一時期少しばかり羽目を外していた香流が祖父によって教育的指導をされる当時の姿もしっかりと記録にとられていたのだから……よく判らない。ただし、当時の中身は現在の比良なので、よく気が付かないものだと廉などは思っている。
「最近は、DVDやハードディスクの普及のおかげで一段と離れに篭って記録の移動などを行っているそうだ……あれで仕事はきちんとされているのだから尊敬してしまうな」
 ちなみに、久樹家の有名双子の父親は普通のサラリーマンである。流石に、ある程度の一般レベルにおける武道の腕前はあるのだが達人レベルには程遠いのが現実だ。
「そう言えば、おじさんって無遅刻無欠勤が自慢だって言ってたなあ……」
 恐ろしい事に、有給休暇はきっちり取るくせに三日くらい徹夜が続いても会社を遅刻欠勤などをしたことは一度もないらしい。早退は過去に一度だけ、双子が生まれた時だけだったのだから仕事人間と家庭人間を見事に両立していると言っても過言ではないだろう。
「そうだ、比良ちゃんがねえ……」
 無邪気な顔をして、章が『聴いて聴いて!』とばかりに嬉しそうに話を始める。
「章、いつも言うけどこいつはともかく年上なんだからチャン付けはするなっていつも言って……」
 言っている事は半ばまともなのだが、本人を目の前にして堂々と双子の妹に実兄の悪口を伝授する当たり。晶はまだまだと言う見かたが出来る……6歳なのだから当然と言う事なのだが。
「晶くぅん……実のお兄様に向かって『コイツ』って言う言い方はどうかと思うんだけどなあ?」
 よって、漏れなく晶は実の兄によって「こめかみぐりぐりの刑」をされると言うのを。何故か、妙に頭の良い筈なのに学習しないと言う現実に幾度もめぐり合う事になる……しかも、これからも。
「いた、いたたたたたたっ! 幼児虐待!」
「難しい単語を知ってるのは感心だが……使い方が違うよ、晶くん?」
「……廉と晶は放っておいて、章。アレがどうかしたのか?」
 香流の言う『アレ』と言う言葉に首をかしげたものの、ようやく話をまともに聞いてもらえる人が現れた章は疑問を後回しにした。
 この場合、章の疑問は自動的に消去される運命になるのだが。
「うん、比良ちゃんにおねえちゃんが来たの。おじちゃん、カメラ持って走って飛んで、おばちゃんにひきずられてっちゃったあ」
「……おねえちゃん?」
 コメカミをぐりぐりされて、頭の痛さのあまり頭蓋骨を擦っている状態の晶が眠そうな言語を操る双子の妹のフォローをするのはいつもの事であり。
「あれって、比良兄さんの彼女じゃないかな?」
「彼女……?」
 姉弟が逆転した生活を続けている現在、恋愛関係において特に決めたことはない。
 ないのだが、いきなり彼女を家に連れ込んだりとかする可能性は考えた事が無かったのでいささか驚いたのは確かだった。
「香流う……」
 一見すると冷静そのものなのだが、実は見る人が見れば結構動揺を隠せない状態となっているらしい香流と廉は、晶と章が声をかける間も無く家の中に入り。
「……状況の説明を、求めても構わないか?」
「おかえりなさい、香流さん」
「あれ、君は……」
「こんばんわ、向坂さん」
 廉には、どこかぐったりとした様子の比良の背後から現れた制服姿の女子高生に見覚えがあった。その姿は、今と違う記憶での姿をしていたし暫く見なかったのでどうかと言う話もあるのだが、顔形は基本的に変わっていない。
「ええと……荒城さんだっけ?」
「うわあ、覚えててくれたんですね。そうです、荒城真由美です」
「香流、助けてくれ……俺……」
「真由美、コレはどういう事なんだ?」
 そう、その姿は少し前に喫茶店で別れた筈の荒城真由美その人だった。
 真由美は従兄弟が香流や比良、廉の通う学校に居るとは言っても比良はその事実をきちんと理解しているわけではない。ましてや、廉の場合はその下手に香流が比良だった時にしか会っていない事もあって状況が把握しにくい状態になっているらしい。
「香流さんが言った事、私なりに考えてみたんです……でも、やっぱり直ぐには信じることが出来なくて」
 廉が無言で「彼女にも言ったの?」と言う視線で香流の死角から問いかけてきたのも。比良が半ばぐったりしながら香流に倒れ掛かるように抱きつきながらも「なんでコイツが知ってるわけ?」と言う疑問の視線をびしばし飛ばしていたりもしたが。
 香流は、全て無視した。
「私、だから……自分で確かめに来たんです!」
「……どちらにせよ、玄関先で話をするのもどうかと言う所だろう。
 道場で良ければ、そちらで話をさせてもらう」
 別に部屋が狭いとか言うわけではないのだが、ある程度の秘密を保てて密封度があり。なおかつ公的な場所として開けているのが道場なのだと言うだけであって、別に居間とかでも良いのだが……何しろ、興味津々と言う両親の顔が邪魔臭くてたまらない。
 祖父は、奥の部屋に居るだろうがこちらに現れることは滅多にない。鍛錬は昼間の間にしているし、若者の邪魔をしたくないと言うより。邪魔をして邪険にされるのが嫌だと言う理由から、食事ですら滅多に共にしないのだ。
「私、香流さんの家に来るの初めてです……噂には聞いてましたけど、本当に大きいですよね」
 道場は基本的に板の間なのだが、着替えをする更衣室の他に倉庫と練習後の為のシャワールームと指導者控え室と言う部屋がある。こちらは畳敷きになっていて、控え室は冷暖房も水周りも完備だ。
 大型の道場と言うわけではないが、施設だけはかなり充実しているのが自慢だ。
「あ、お気遣いなく……私、今日はお二人が入れ替わったって話を確かめに来たんです」
「参ったよ……俺、会ったこともない女の子にいきなり『香流さんだったって本当ですか!』とか怒鳴りつけられるし。母さん達に見つかるとヤバイって思って気が気じゃなかったし……」
 話しても誰も信じないだろうとは思うけれど、あえて公言する必要はないと言うのが秘密を知っている全ての人たちの共通見解だ。だから、自分から話すと言う行為は必要にかられた時を除けばしないのが普通だ。
「俺、その話は初耳なんだけど……」
「秘密をバラすと言う点については、同感……流石に、一日で二人もとは思わなかった」
「えぇっ!」
 廉の告白に、比良は酷く驚いた顔をする。
 その比良の顔を見て、真由美は心の底からため息をつきながらしみじみと「本当に中身が違うんですねえ」とか言った。
「真由美、私の言った事を信じるのか?」
 少し考える仕草をしてから、真由美は「はい」と答えた。
 同じ年齢の筈と言うか同じ学年なのに、妙に真由美は香流に対して本当に下手だ。
 最初のうち、それには『好きな人の姉』に対する強かな計算があったのかも知れない。実際、最初の頃の真由美は香流に対してえらく卑屈な態度だった様にも見えて周囲から少し言われた事もある。
 だが、香流は何も言わなかった。
「そりゃあ、信じたくはなかったですよ?
 でも……私の知ってる久樹比良君って人は、少なくともそんなに表情豊かじゃなかったし。そんなに沢山しゃべったりしなかったし、そんな目で睨んできたりとか……なかったんですよね、少なくとも」
 それだけを聴くと、何やら久樹比良と言う人物は「本当に普通の男子中学生だったわけ?」と言いたくなる様な気がしてならないのは……気のせいだろうか?