その5・事実と虚偽の現出


 店内の人物が誰一人として言葉を発しない場合、そこにあるのは店内に流れる音だけとなる。
 日ごろ、この店に訪れる人は知っているのだろうか?
 その店で本当は耳を凝らせば優雅な旋律が流れ、時として水槽の魚が跳ねる音がして、カウンターの奥で何らかの作業をしている感じがするのを。
 耳だけではなく、感覚の全てがこの店は「生きている」事を知らしめる。決して、昨日や今日出来たばかりのお店では味わう事の出来ない歴史と重みを感じさせる時間と空間である事を。
「……あのう、香流さん? 言ってる意味わかんないんですけど?」
 沈黙を破ったのは、真由美だった。
 衝撃を浴びたかの様に一瞬だけ塊り、本当に意味を考えたのか否か判らない表情をしている。恐らく、考える時間など全く無かったに違いないのに「判らない」と簡単に口にしている。
「香流、僕にもわからないんだけど……それって、どんな冗談?」
 旗志がそう言うのも当然と言うもので、冗談にしてはポイントがよく判らない。
 香流の表情が、それまでと全く変わらない淡々としたままだって言う状況が更にそうさせる高価があるのだろう。
「冗談などではない、私は数ヶ月前……昨年の剣道中学生大会前まで、確かに久樹比良の肉体を持っていた。その生活をしていたし、何の不満も無かった。
 しかし、ある日を境に変わってしまったのだ。
 この、久樹香流の肉体に」
「でも……別に、手術とかした様には見えないですよ?」
 ある意味、天然系ボケ台詞をかましてくれる真由美である。
 しかし、この場合は真由美の方が常識的なのかも知れない。
「無論だろう、私は両親から頂いた肉体に傷をつける趣味はない……もっとも、修練の間でついてしまった傷に関しては申し訳なくも未熟さを嘆く事はあるが」
 一口に「修練」とは言っても、この場合の久樹比良に関しては普通の中学生レベルの話ではないのは知っている人は知っている。と言うのも、代々続いた道場の後を継ぐ存在として普通に育てられたのだから勉学も必要だが以上に必要なのは当然の事ながら腕だ。
「けど、香流さんってピアスしてますよね?」
「これは……比良が香流だった頃。中学の一年の頃につけたものだ、現在継続している理由は他の何を置いても香流の肉体にはピアスが似合うのだから他には文句をつけないからピアスを外す事だけは却下だと、今の比良に言われているのだ」
 実際、香流はさり気ないが質の良いピアスを結構つけている。髪が長いから一見すると判りにくいが、幸いにも斑鳩学園の校則は結構緩いのでピアス程度で文句を言われる事はない。
「実際、ピアスをつけている間は私の言動に絡んでこないので重宝するがな」
 本当に理由がそれだけなのかは……実は、香流は知らない。
 だが、折々で比良がプレゼントしてくるピアスは内心で辟易しながらもきちんと貰っているあたりが律儀だ。
「本当ならば、私は最後の中学での剣道の大会に出て。そして引退するつもりだった、すでに二段試験を通ってしまった事もあって高校で現在の修練を継続しつつ大会に出るのは問題があると師匠の一人でもある父上に申し渡されていた。
 だが……それは、半年以上も早くに。果たさなくてはならなかった」
「よく判らないんですけど……別に、いいんじゃないですか? 大会に出ても?
 そりゃあ、カッコいい比良君が更にモテちゃうのってすごく心配ですけど……」
「問題は、色々とある……旗志君には、想像がつくだろう?」
 手付かずのコーヒーは、すでに湯気を立てるのを止めていた。
 二杯目の紅茶は入れられず、半分だけ消えたケーキは半分だけ姿をとどめていた。
「え、そうなんですか?」
「ああ……まず、初段試験の資格は中学二年以上。そして、普通の中学生で初段まで行くのはちょっと難しい。二段なんて、初段を合格して一年以上の時間が無ければ資格もない。
 つまり、久樹比良と言う奴は『強すぎる』と言う前提がある」
 無論、中には趣味などでとりたい人物は昇段試験を受ける人もいるだろうが。たかだか中学の部活程度でそこまで熱心な人物となれば、やはり優先的に武道重視の学校の生徒に限られる。
「へえ……やっぱり、比良君ってすごいんですね」
 こういってはなんだが、久樹比良は公立中学校の出身だ。
「だが、試験前に私達は入れ替わってしまった……つまり、精神が肉体を交換したと言うのが私達の一致した見解だ」
「私『達』……って、誰ですか?」
「廉……私の隣家である向坂医院の院長で我が家の主治医である、向坂義人氏だ。廉の父親にあたり、私達にとっても昔から懇意にしていただいている大切な家族同然な方だ」
 肉体を交換と言う所で、ひどく……旗志が嫌そうな顔をした。
 状況を理解しているのかいないのか、逆に真由美はきょとんとした顔で「何が問題なのか判らない」と言う状態だ。
「香流……そんなに僕が嫌いなの? そんな、下手な言い訳までして……」
 逸早く理解したのか、旗志の表情は青ざめて苦悩と言うか苦悶の声を上げかけている。
 当然といえば、当然の事だと香流は理解している。だが、時にはそれが相手に対して追い討ちをかける事になるなど香流には思いもつかなかったのだろう。
「言い訳などではない、事実だ。
 私は、私の現実を即座に理解し、受け入れて欲しいとは思わない。私だって受け入れるのには時間がかかっている……だが、旗志君の憎しみの対象である比良は、かつて私だった。その憎しみは、今の比良ではなく昔の比良である私に向けられなくてはならいものだ。
 真由美、だから真由美の思いはどれだけ頑張っても比良には届かないのだよ。真由美が好きだと告白した比良は、もうこの世界のどこを探しても存在しないのだから」
 人は、時に己で気がつかなくてはならない事がある。
 それは、今の香流がいかに残酷であるかと言うことだ。けれど、香流は二人に納得してもらわなくてはならない必要があるので気が付く事はない。
 悪意ではなく、善意の為に。
 好意と憎悪を持つ二人の人物に対して、同じ思いを抱くのは善悪のどちらなのだろう?
「え……と、どうして……?」
「私は、かつて比良だった。真由美が何度も好きだと、付き合って欲しいと言ってくれた比良だった。けれど、私はもう比良ではない。今の比良は、私ではない」
 首を横に振った香流の表情は、何時にもまして……硬い。
「な……何を、言って……香流さん、そりゃあ最初は比良君と仲を取り持って欲しいなって思ってたけど。でも、今は香流さんカッコいいし、すごく好きだなって、そう……思って、る……のに……」
 あえて例えるのならば、凍っていた氷が溶けて水となって流れてきたかの様な速度を持って真由美も香流の言っている言葉が浸透してきたのだろう。
 やはり、頭の中の半分以上は何を言っているか判らないと告げているのに。残りの部分は、香流の言葉を受け入れ始めている自分自身を理解していた。
「真由美、私は真剣な気持ちを向けてくれるから。だから真由美には嘘をつきたくないと思うし、真剣な思いを返すべきだと思っている。
 私は、決して真由美に嘘は言わない……それは、変わらない。比良から香流になっても、変わらない」
「そんな……その、台詞……」
「想像の通り、最初に『私』に告白をしてきた時の真由美の言葉だ。今の比良に、あのときの真由美の言葉を一言一句真似る事などは出来ない」
 比良が静かにモテ始めたのは、中学に進学してからだ。小学生の頃は影で親父臭いとか言われていたこともあるのだが、制服が思いのほか似合ってしまったのが良かったのか悪かったのか。上級生から下級生の、ある種の女子生徒からモテてしまった。
 しかも、特殊と言える種類の人たちだった為に……下手に思いは強かった。
「真由美には、本当に申し訳ないと思う……一年近く、ずっと黙って。だましていたのも同然だ、けれど今の比良は私ではない。だから、その思いはどこへも行く事は出来ない」
 ただし、真由美は別の意味で違った。
 制服が似合うとか、カッコいいとか言うだけの問題ではないところで。きちんと振られても、一年以上ずっと思い続けて断られてもプレゼントを渡そうと努力して、けれどやはり駄目だった。
「……香流、さん?」
 中学三年の受験生に進学してすぐ、ストーカーの話題が校内を駆け巡った事もあって行動を控えようと思った真由美は。そのターゲットを香流に変更して、何気なくさり気なさを狙って徐々に友達として付き合おうとして、結果今の関係があった。
「すまない、真由美」
「あ……は、はは……あたし、今日は帰ります。よく判らないし……考えたい……」
 どこか呆然とした様子の真由美は、まともに帰れるのか誰が見ても判らない。
 けれど、香流は手出しをせず止める事もせず「気をつけて」とだけ告げて。それが良かったのか悪かったのか、真由美はおとなしく店から出た。
「……旗志君、私は卑怯者なのだよ。
 現実を盾に私は、私に関わりのある人とない人を同時に傷つけている。しかも、笑えない事に現在進行形だ」
 すっかり冷めてしまい、湯気の一つも立たないミルクティ。
 外気に触れてしまい、常温に溶けてしまうケーキ。
 下手な子供のお遊戯会の様な、馬鹿馬鹿しい茶番劇。
「謝る必要など、本当はないのだと知っているし判っている。これは原因が不明な事故であり天災だ、どれだけ望んでも意思の力で元の……と言うと御幣があるが。精神と肉体を入れ替える事など出来ない」
「……冗談にしては、つまらないんじゃないのか?」
「旗志君、君がどれだけ私……比良に意欲を燃やしていたのか私は記憶している。
 今の比良に、君と交わした手紙を見せることが非道だと思い隠してある程には……それでも、私達は君の期待を裏切った事に変わりはない」
「比良に……聞いたのか……?」
「あの時、旗志君は剣道部に現れて直接対決を申し出てくれた。私は、正規の大会以外での他流試合は禁じられているので出来ないと答えた、けれど代わりに大会でならば必ず請合おうと。竹刀を交わそうと答えた」
 ここで「刃」とでも言えば格好良い話になるのかも知れないが、現代日本で交わせる刃があるのならば聴いてみたいものである。任侠道の世界ですら、すでに刃を交わさぬ様なものになって久しいと言うのに、一般的中学生が簡単に出来るものではない……もっとも、表には出てこない裏の世界ではうかがい知れぬ事ではあるのだろうが。
「携帯のシークレット機能を使って指紋認証でなければ連絡先は取れぬ様にしておいたから、今の私がどれだけ頑張ろうとも住所を探し当てる事は出来ない。それは、目の前で披露したとおりだ、今の私には比良の指紋はないのだから」
 約束と言うわけでは無かったが、かつてお互い中学最後の大会を出場する事を決めた。
「けれど、私達が入れ替わってしまった事で指紋認証が逆に仇となる。その事も含めて、私達は交友関係を一度整理しなくてはならなかった……その折に、最初から全てを知らせると言う選択肢もあることはあった。だが、私達はこの問題を外に広めるつもりは無かった」
 そこでならば比良は対決を受けるといったからであって、比良としては道場の関係もあって秘密裏にしておきたいと言っていた……事実、比良は噂には上るけれど控えの選手でしかなかったから知る人ぞ知ると言う感じだった。
「だったら、どうして今……僕に?」
 ただ、それは父親の「強すぎるが故の欠場」に従っていたからだ。
「私は……私の責任において下される罪と罰を、果たされるべき責任に関して。今や弟となった比良に押し付けるつもりはない……もしも、事実を旗志君が知らないままであるのならば、どんな手段を用いても比良に勝負を挑むだろう」
 その想像に過ぎない判断は、あまりにも的を得ていたので旗志は口出しをしなかった。
 と同時に、それだけを見て判断を下せた香流の能力に。もしも、目の前に居る少女が本当に比良であったとしてもなかったとしても、とても高いものなのだと判断を下した。
「けれど、今の比良は記憶喪失とも同じだ。自慢ではないが中学時代とは比べ物にならない……私が直前まで鍛えていた肉体ではあっても使う中身が慣れていなければ無意味だ。
 だからと言って、今の私が旗志君と戦っても正当な剣道の試合で勝てるとも思えない。
 そもそも、性別が異なる為に大会でかち合う事もない」
「信じないかも……知れないのに?」
 言った時点で、その言葉はすでに信じているのだと言う事を自覚してしまう。
 香流は、それを知っているのかいないのか。向けられた表情にこれと言った淀みも歪みもなくて、心の奥底では何をどう感じているのか少し判らない。
「信じられなければ……残念だが、私はそれに立ち向かうつもりだ。
 弟を守るのは、姉である私の役目。家を守るのは、長子である私の役目であるのと同じだけの話……私はね、旗志君と戦う心積もりが出来ている事をきちんと話して置きたいと思ったから、ここへ来ていただいたのだ」
 言いたい事を言ったという事なのか、香流はすっかり冷めてしまった紅茶を手に取った。
「無論、この場で今すぐと言うわけにはいかないけれど……。
 だから、廉も比良も今日は来させなかったし。真由美が共にある場を選んだ。
 もし、どうしても旗志君が戦う事を望むと言うのであれば。及ばずながら私が、その相手を勤めさせていただくつもりだ」
 残ったケーキに、フォークを刺し入れる。
 優雅な仕草は、肉体が変わっても可能と言う事なのだろうか?
「……じゃあ、この事って」
「廉はどうか判らない、正直言って察している部分はあるだろう。
 だが、アレは気づいてもいないだろう。肉体に培った感覚はあるだろうが、そこに至るまでの経過と結果を想像するだけの力は備わっていない筈だ」
 だから、あんな風に比良は「姉を守る様な目」でこちらを見つめてきたわけだ。
 しかも……その眼球には思い切り「何だお前」的目でも見つめてきたのは。どうやらその当たりに思い切り理由があったらしい……とりあえず、忘れられたと言うわけではないらしいと言うのは理解した。
 確かに、前述の通りの事があるとすれば比良の態度はよく判る……確かに判る。判るのだが、理由が理由なだけに何となくでもなく人として理解したくない気がするのは気のせいでもなんでもない。
「旗志君、信じる信じないは君に任せたいと思う……私が同じ立場に立たされた場合、やはり信じるのは難しいだろうと思う。
 実際、こうして香流の肉体で旗志君と相対している現実はひどく希薄で……どこか、夢の様で。出来る事ならば、これが夢であるのならば良いと思うくらいだ」
 全てを食べ終わり、紙ナプキンで口元を押さえた姿は清楚だ。
 自称「元男性」であるとは思えないが、肉体的に何か変化があったわけではないのだから。自称である以上はどうしようもないと言うことなのだろう……恐らく。
「私は、これで失礼する……連絡を取りたいのであれば……」
 すっと立ち上がりペンで紙ナプキンに連絡先を明記したところ、その途中で香流の手は旗志によって掴まれていた。掴まれると言っても、別に攻撃される様なものではなかったから香流は抵抗しなかった。
「……教えてくれるんだ?」
「無用であるならば廃棄する」
「……ありがたく、いただく」
 どうやら、旗志も勢いで掴んではみたものの。その後で実際に何かどうしたいかと言うプランは、特になかったらしい……掴んだ本人が酷く困った顔をしているのは、捕まれた方にだってどうしようもないと言う話もある。
「私は……」
 掴まれた手を自然に外して、香流は正面から旗志を見つめる。
「決して君が嫌いではないよ」
 そうで無かったとしたら、いかに責任感や義務があるとは言っても香流が己の正体や過去とも言うべき現実を晒してまで旗志の前に現れようとは思わなかっただろう。例え、この状態になって先に現れたのが旗志であっても、全ての事情を伏せたままで対応する方法など幾らでもある。
「本当に」
 釣られたかの様に、静かに旗志が立ち上がった。
 じっと見つめてくる香流の瞳の中で、香流を見つめる旗志自身の姿を見つけて。
「戦ってみたかった」
 現代社会に置いて、しかも戦後半世紀以上もたった今。
 退役軍人と言う人種は、もはやほとんど存在しないに等しい状況と環境で。
 例えば、剣士と言われる存在も忍者と呼ばれる人種も、もういなくて。
 だからこそ、旗志は香流の目を見て。
 逸らしたい衝動と戦うのは、少し大変だった。
「今からでも、戦えるかも知れないけど……」
 香流は、もう。戦えない、戦うべき者の目をしていた。
 そんな風に、旗志には見えた。
「難しいな」
「いや、はっきり無理だと言ってくれて構わない」
 苦笑しながら、香流は何度その現実を突きつけられたのだろうかと思う。
 最初から出来なかったのならばともかく、いきなり現実が逆転してしまったのだから無理もない。おまけに、男から女の肉体になると言うのは弊害が多すぎる。
「無理じゃないとは思うけど……さ」
 少し、考えてから旗志は考えないで言葉を紡いでいた。
「やっぱり無理かな? 惚れた相手と戦うのって」
「……は?」
 思わず、香流は間の抜けた声を上げていた。
 ついさっきまで、現実には認識できない様な事を話していて。
 高校に入ってから「クールビューティ」と近隣の高校生に評判で、造作はともかく仕草が古きよき日本の大和撫子を体現していると言っても良い。決して触れれば切れる様な美しさなど持ってはいないが、現実味がないと言う点に置いては大差ないだろう。
 その、美人の条件と不思議ちゃんとの境界線にあると言って良い香流が。
 鳩が豆鉄砲でも食らったかの様な顔をするのを見て、それだけで。
「うん……今日、香流の誘いに乗ったのは正しかったな」
「それは……旗志くん、どういう……?」
 旗志は、作為もあったのは確かだけれど己の目が曇っても折らず正しい事を認識した。
 久樹香流と言う人物は……とても、興味深い。