その3・友情と恋愛の区別


 結果として、羽香は一時間目の授業が始まる直前になってギリギリセーフと言う感じで滑り込んできたのを香流は確認した。
 教室の位置からすれば、比良の方が確実に遠距離な場所に連れ込んでいる筈なので遅刻したかも知れないが。香流は羽香の性格も比良の肉体的身体能力もよく知っているので、対して追及しようとは思わなかった……ただ、流石に二人が何をどんな風に会話していたのかはとても気になるのは確かだ。
 別に、二人の関係を気にしているわけではない。
「聴かなくて良いのか、香流?」
「……廉か。今は難しいだろう、あの様子では」
「そりゃあまあ、そうだけどな」
 休み時間に入る度に騒音に対して、廉は苦笑しながら香流に頷く。
 廉としては香流が逸早く羽香に質問したいだろうと思っているのだが、そうはさせない輩達は存在する。特に、複数となるといかに香流と言えど口出しをするのは難しい。
「だから、なんだって休み時間の度に来んのよ。あんたも! あんたも!」
 いい加減に切れた状態になった羽香は、おでこに血管が浮いているのを自覚しているだろう。しかし、いつかしわの原因になるかも知れないと恐れているおでこの血管浮きを気にする事が出来ないまで追い詰められた現在。後に冷静になったら激しく後悔する事になるのだろうと、香流は冷静に分析する。
「だから! とっとと羽香が吐けば良いだけの話だろうがっ!」
「そうよ、姫様の言うとおりよ!」
 複数の女子生徒が羽香を取り囲み、追求している……本来、この手のやり取りは当事者を物陰に誘いこんで複数の女子生徒が乱暴しながらするものだと相場は決まっていると思っていただけに、香流には新鮮な場面として目に映っているのだろう。
 実際には、校内でも有名な若様の隣の姫様が隣にいるので。連れ出すのに失敗をし続けていると言う背景があったりするのだが、その当たりについては香流が聴かないので誰も教えたりはしない。
「何がいけない! 幼馴染が旧交を温めるのに何の問題があるってわけなのか、納得の良く説明をしてもらいたい!」
 確かに、名前からして「わか」なのだから舞台劇の影響などもあって「若様」呼ばわりされているのが羽香の特徴だ。
「そろそろ……危険な兆候……」
「だな。どうする? 香流? 止めるか?」
 しかし、性別はれっきとした女子で付き合うなら男性が基本で。
 実を言えば、少し前まで年上の彼氏と付き合っていたと言うのを香流は知っている。
 だが、羽香は見てくれの関係もあって将来は弁護士か検察官を目指してるだけあって文武両道を目指している。もっとも、武道に関しては勉強に掛かりきりになってしまって昔ほどではないが何も知識を持っていない女子高生に比べれば十分強い。しかも、度胸をつけるために色々と試した事があるらしく、本気で怒ると舞台口調になるのが特徴だ。
「……いや、私は犬も食わないものに巻き込まれるのはゴメンだ」
「は?」
 廉が親切にも助け舟を出そうと提案したが、香流はそちらをちらりと見てからそ知らぬふりをした。
 この事実が羽香に知られれば、後に誹謗中傷あたりされそうなくらい空気はぴりぴりしているが。香流は何かを感じ取ったのか放置して問題がないと判断したらしく、次の授業の支度と予習に余念が無かった。
「それが悪いとは言わない、だけど羽香だってこいつらがどうしてお前のことが気になるのか判ってないと本当に思うのか?」
「それは……!」
 つい今までの感情に流された物言いが相手ならば、羽香は問答無用の勢いで押し返す事が出来る。相手が真ならば手を出したところで一部の姫様ファン以外からクレームが出ることは少ない、だから大丈夫。
 けれど、今みたいに急激に態度が変えられると。全速力で走っていたのに、急ブレーキをかけられたかのように一瞬の反応が遅れる。
 羽香とて、将来は法廷を目指す身の上ならば言葉の駆け引きについては勉強しなくてはならないと思うし未熟だとは思う。けれど、これについては一朝一夕でどうにかなると言うものでもないのが辛い所だ。
「けど、それは私と比良の幼馴染的な問題であって。第三者にいちいち報告する義務があると思うのか?」
 幸いな事に、一瞬の間さえあれば羽香は思考を切り替える事が出来る。
 それだけが、唯一の救いと言うものだろう。
「廉や香流ならまだしも、なんだってあんたら一般女子生徒に答える義務がある?
 それとも何か? お前らは己の恋愛状況を逐一大声で周囲に報告する羞恥プレイをして『恋心』とやらを満足させるのが満足か? だったら、現在の恋愛状況をレポート用紙5枚以内で提出してから出直して来なさい!」
 ただし、激昂していると言うのは継続中……らしい。
 羽香の迫力に対して、集団で来た女子生徒達は三々五々に散り始めた。もっとも、最大の理由は次の授業が始まるチャイムが鳴ったからなのだが。
「疲労が激しそうだな、羽香」
「香流……何? 香流も私と比良の会話聞きたいわけ?」
 憮然と座りなおして、長い足を組んだ羽香は大分すねている様だ。
 羽香にしてみれば、今面倒が一つ去ったばかりなのに。面倒の大本についていかに香流が相手とは言っても簡単に口を割るのは、今すぐは遠慮したいと言うのが本音なのだろう。
「いや……ただし、私の相手よりも先に果たさなくてはならい事があるのではないだろうか? と思うのだが?」
「どういう……」
 ふと、香流の隣に当然の様に立つ廉の姿を見つけてしまい。
 思わず、羽香の表情に攻撃的なものが宿る。当の廉も、それを見ているだろう筈の香流もその事には触れず、悪意ある見方をすれば飄々とした態度に見えて堪らない。
「意味……て、あ?」
 ふと、羽香が香流の視線の先を辿ってみれば。
 憮然とした態度で先程と同じ姿勢で席に座っている、緋女真の姿がある。
 とは言っても、それは当然の事だろう。二人が全校生徒の認めるコンビである以上、当事者の意見は完全無視で隣り合った席にさせられているのだ。ちなみに、他の生徒達は「不公平なるくじびき」とやらで席が決まっているのが担任の趣味だ。
「武士羽香さん?」
「は……はい……」
 少し、ここに来て羽香の表情が青ざめたのは気のせいではないだろう。
 本人も、出来る事ならば座っている椅子ごと漫画の様な「ずざざざざざざざぁっ!」と言う効果音でもつけながら教室の端。もしくは、教室の外まで逃げ出したい衝動にかられているに違いない……無理な話なのは重々承知だが。
「まさかと思うけど、俺にまで隠し事なんて……しないよねえ?」
「え、でも……これは……」
「休み時間の度に女の子が襲来して、隣の席の俺まで思い切り巻き込まれて」
 それは襲ってきた女子生徒が問題なのであって、別に羽香の個人的なせいではないとか。
「こっちが助け舟だしてやろうとすれば、ことごとく潰してくれやがって……お前は『かちかち山』の狸か!」
 いえ、狸は泥舟だったんでどっちにしても助けにはならないと思いますとか。
 どちらにしても、結果的に助けにはならなかったと思いますとか。
「挙句の果てに『関係ない』だと! お前、何様のつもりだ!」
 実際問題として、緋女真は当事者とはクラスメイト以外の関係は全く無いのだから。その事について隠匿しようが秘匿しようが、何の問題もないと思うんですけどぉ……なる、羽香の心の声が真の元に届く事などあるはずもなく。
「いや、と言うよりそれは……」
「こう言うのは俺も好きじゃあないんだが、俺がこの何十分間損した分の穴埋めは当然してもらうぞ……!」
 深く、静かに怒っている斑鳩学園の「姫様」の瞳と声色を止められるものは。
 誰一人として、存在する筈もなく……。
「うんうん、良い事だな。そう言うのを『損失補填』と言うんだが……。
 とりあえず、まずは先生からその『損失補填』を要求すると言うわけで」
 否、訂正しよう。
 唯一、斑鳩学園の「姫様」と「若様」の怒りを強制かつ一時的に納める事が出来るのは。
 教職員と言う名の「権力者」だったりして、当の羽香は「とばっちりだよぉっ!」と内心で思いながら香流を眺めつつも。平素の人形のような凛とした美しさを身に着けてしまった「親友」が、やはり眉根一つ動かす事なく前を向いたままだったのを見て。
「……すみません」
「すいません」
「とりあえず……廊下にでも立っててもらおうかな? ん?」
 どんな言い訳も、この教師と言う難物を前には無意味だと思い知る事になった。
「二人とも、廊下で続きをしたりこのまま逃亡とかしたら駄目だからな?」
「「はぁい……」」
 廊下に出た二人の「有名人」が、声を潜めて喧々囂々を思わず続きをしていたりするのは二人の内緒になっていない内緒話ではあるが。
「良かったのか? 後で羽香の機嫌取り、少し手間がかかるんじゃないか?」
 教師の計らいなのか、それとも単に最初からその予定だったのか。
 その時間からクラスでは4人一組になってグループ学習をする事が言い渡され、香流の斜めの席だったりする廉はこっそりと耳打ち状態で聞いてきた。ちなみに、羽香と真は反対側の斜め席ではあるが同じグループではないので。どちらかと言えばそちらの方が問題なのかも知れず、しかし聴かれなかったし察知してるだろうと踏んだので香流は口にしなかった。
「無茶を言うな、廉。
 私は、あの時点で羽香がどんな情報を持っているのか判らなかった。だから助け舟を出す事も出来なった。
 第一……本気でそう思ってなどいないだろ? 本気なら、今頃は私ではなく廉自身が動いていただろうからな」
 ちなみに、廉も香流とは同じグループではない。いかに今日がグループ学習の初日でほとんど自習同然と言う状況ではあっても、やはりこうして私語ばかりするのは本来は良い印象を与えないものだ。
「手札がないとは言わないだろ?」
 だが、幸いにも他の班員達はすでに「いつもの事」として処理している。
 どちらにしても、成績優秀な二人なので放っておいても問題がないと思ったのか。それとも、下手に介入して廊下に立たされ坊主二人みたいな状況になりたくないと思ったのかのどちらかだろう。
「その問いに対しては、黙秘権を行使しよう……ああ。最近、気のせいか羽香の様子が変わったのだが。その事について納得の良く答えを提供すると言うのであれば、質問に答えても構わないぞ?」
 言われて、廉は少し笑みを返すだけだった。
 こんな状況が、知らない者には昔から。知っている者には、中学のある時期から二人の間でやり取りをされている事を知らしめていた。
 なので、幾ら他校の生徒とは言えども噂を知っているのならばこんな雰囲気を作る香流と廉の間に割り込みをかけようなどと言う命知らずは本来、存在するはずはない。
「香流にアタックをかけるチャレンジャーなど、加藤くらいだと思ってたんだけどな」
 ぼそりと紡がれた言葉を、香流は聞こえていた。
 否、その筈だった。
 けれど、香流はその言葉に返事をしなかった。廉も、その言葉に対する返事を期待していると言うわけではなさそうだった。
 どちらかと言えば、その空気に対してハラハラドキドキの一喜一憂をするのは周囲のクラスメイト達がちらちらとこちらを覗いているくらいで。十重二十重とばかりに興味深そうに見たり見なかったりしているのを、本来は鬱陶しいと思うのは当然だ。
 しかし、香流も廉も全く周囲には気にかけないのが良く似た態度である。
「とりあえず……若姫コンビの問題のほうが先にあるのは確かな様だな」
「違いない」
 もう一人の当事者である、比良から話を聞くという話もあることはあるのだが。
 あちらに関しては、下手に話を聞こうとしても性格を熟知している以上は下手に聞こうとすれば難題を吹っかけられる可能性も結構あるので言えないと言うのもある。
「羽香も、もう少し状況を思案した上で判断を下せるようになれば良いのだがな……やはり、精神は肉体に左右されると言うことなのかな?」
 事をこじらせれば問題が大きく発展するのは確かだが、扱いやすさを考えれば羽香の方が楽にこなせると踏んでいるからだ。とは言っても、万が一にも比良と羽香が結託をすればそうも言っていられないのだが……中学の頃ならばいざ知らず、今の状態でそれはないと言うのが事実だった。
「香流が言うと意味深だね、それは否定できないと思うけど」
「そうだな、男性の生理現象も意思で抑えられる範囲と言うものは存在するのだし」
 更に会話の中身が意味深になったところで、タイミングが良いのか悪いのかチャイムが授業の終了を告げた。
 一部、特に香流と廉の会話に聞き耳を立てていた生徒達がこっそりとため息をつきたくなったのはいつもの事で。それを知ってか知らずか、羽香と真がぶつくさと言いつつ口論と言うわけではなさそうな感じで教室の中に戻ってくる。
「全く、真もしつこいったらありゃしない!」
 どういう会話が展開されたのか、それは当事者である廊下に居た二人にしかはかり知ることは出来ない。
「ご機嫌は斜めの様だな、羽香」
「時々、あんた達二人の冷静なお顔って言うのが気に食わなくなるのはどういう心理状態なんだと思います? 香流さん?」
 苦々しい表情ではあるが、そこに怒りや憎しみと言ったものは存在していない。
 つまり、本気で言っているわけではないのだと香流は思う。
「そうだま、元々は私が貰った手紙の件で……と言うあたりだろう?」
「ま、そんな感じよね。何の関係も無い奴らが束になって掛かってきたって、そんなのあんたらの好奇心を満足させるワイドショーなみの話題にしかならないっての!」
 香流の視界の隅で、真のこめかみがぴくりと動いたのを認めたが。
 向かっている位置関係からなのか、羽香は気がつかないようだ。
「では……真もやはり、無関係なのか?」
 そ知らぬ顔をしながら、羽香に香流は言う。内心では人が悪いと言う自覚があるものの、言われた当人はそこまで考えが至らぬようで、香流は視界の端の真に廉が近づいて一言、二言の声をかけるのを認めた。
「けどなあ、幾らなんでも。やっぱり友情と愛情は違うでしょ? やっぱり」
 その一瞬で、思わず教室の空気が凍りついたのは気のせいでもなんでもないだろう。
 流石に、廉ですら一瞬だけ凍りついたのを自覚した。
「ふむ……それは、比良に関して恋愛感情があると解釈して良いのか?」
 更にとんでもない爆弾発言をする香流を、まともに見られるのが羽香だけで。その羽香も事態を全く理解していない為に言葉の意味を深く考えていなかったのは、幸運だったと言えるだろう。
「まっさかあ! そりゃあ、比良とはなんていうか……幼馴染だし、よき親友って感じだけどさあ。
 前だったら考えないでもなかっただろうけど……どっちかって言えば、今は香流の方が好きだし。うん、すごく」
 僅かに硬さを残したままではあるが、教室の時間がやっと動き出したような感じがした。
 しかし……真も廉も多少は複雑そうな顔をしているのが少し気に掛かる程度で、実際には全てがチャラになったと言うわけでもない。
「この場合……礼を言うべきだろうか?」
 天然的に疎いと言うのは方向性がおかしい香流は、ひどく真面目な顔で尋ねた。
「あら、言葉とか精神的じゃなくて物理的とか態度とか行動でお礼をしてくれても構わないけど?」
「「こら待て!」」
 男二人の台詞が重なった時点で、羽香が楽しそうな顔をそちらに向けていた。
 どうやら、からかっていたらしい……どの時点で気づいたのかは不明だが、意外にも真や廉よりも羽香の方が一枚上手と言う事なのだろう。
「あら、何よ? 私と香流の愛情に何か文句でもあるって言うの?」
 いきなり、羽香が香流を抱きしめたりする。
 一部の生徒達からは様々な思惑の混じった視線とか声とかが飛び交うが、上半身だけを見れば男女間のカップルがいちゃついている様にも見えるのだから気持ちはわからなくはない。
「まあ、同門だしな……」
 状況が判っているのかいないのか、一人だけ香流は冷静な声を漏らす。
 幼い頃からの付き合いだと言う事や、同性だからと言う気安さもあるのだろう。
「同門って……?」
「ああ、香流と比良の家は昔から続く道場を開いてて。
 俺も羽香も親達がそこに通っていたことから、やっぱりお世話になってたんだ。俺は今でも結構修行してるけどな」
 廉のフォローで、真は何かを納得したらしかった。
「道理で、時々動作が丁寧だと思った……」
「時々って何よ、時々ってのは! あたしの所作は綺麗なの!」
 緊張感を必要とする行動な為か、同等の緊張感が高ぶると道場に居るのと似たような動作になってしまうのは癖らしい。
「普段が、そんな粗雑なのに舞台の上だけ計算した動作だからじゃないのか?」
「うっさいわよ、廉!」
 幾ら見た目が中世的で捌けた性格であるとしても、羽香がここまで異性を相手に気安い態度をするのは幼馴染だと言う比良と廉だけだ。
「普段からそう言う態度してたら、告白とかも減るんだろうに……」
「喧しいわよ、真だって『姫様』とか言われて追っかけに写真撮られたりしたくないなら。もっとダサい格好でもしてればいいのよ、そんなカッコつけてるからこっちにまでとばっちりが来るんじゃないのよ」
 どうやら、羽香にも真にも、それぞれお思うところはあるらしい。
 もしかしたら、今回はその事もあって羽香の機嫌が良くないのかも知れない。
「あぁん! やっぱり香流が一番好きよぉっ!」
 ぎゅうっと抱きつかれて、やはり反応する廉と真を他所に。一人冷静な香流が抱きつく羽香を撫でていたのは……やはり周囲に複雑な空気を提供していた。