その2・聖女と悪女の境目


 久樹香流の朝は、早い。
 起床時間も早ければ、その後の道場の掃除から早朝練習に始まり。最近になって本腰を入れて母親の手伝いをする彼女は学校に行く前に自室の掃除、己の服の洗濯、お弁当作りに至るまでを完璧にこなす。無論、それは最近になって始めた事もあるので完全にと言うわけにはいかずに始めた当初は両親も周囲の者も「それは無理なんじゃ?」といっていたくらいなのだが、ここ最近はそうも言わなくなってきた。
 特に、小学校時代はともかく中学時代には荒れると言うほど酷くもなく荒れていた頃に比べると格段に優等生となったくらいだ。
「廉」
 廉が隣の自宅に戻って支度をして戻ってくると、必ずと言って良いほど香流は支度を済ませて待ち構えている。待ち構えていると言う表現が悪ければ、待ち伏せていると言っても過言ではないだろう。
「お待たせ、香流。行こうか」
 別に、だからと言っていきなり襲い掛かってきたりはしないが。
「廉、私も同じことを何度も言うのはどうかと思うのだが。わざわざ私を迎えに来る必要はないのだぞ? 廉も己の生活と言うものがあるわけだし、それに……」
 修練を重ねた者だけが感知する事が出来る……気みたいなものとでも言えば良いのだろうか? 研ぎ澄まされた香流の神経は周辺に薄く広がって、落ち着かない様な落ち着くような、そう言う不思議な気分にさせられる事がある。とは言っても、何も香流だけに限った事ではなく多少以上な使い手であれば難しい事ではない。
「俺も、同じ会話を何度も繰り返すのはどうかと思うけどさ。別にいいだろ。同じ学校なんだし? 別に隣同士の幼馴染の同じクラスメイトが一緒に登校して、問題あるかあ?」
 おどけた様な廉の物言いに、やはり複雑な表情をする香流の姿がある。
「中学からの者は……未だに私が、こうして廉と共に行動しているのを訝しがっている様に思えてならない。男女間の恋愛は成立しないなどと言った物言いもされているし、確かに中学の頃は廉は比良と共にあることが多かった。
 流石に、今は羽香がフォローをしてくれる事もあるから何とかなるが。私一人では対処しきれたかどうか……」
 香流、廉、比良の三人は同じ高校に進学している。
「羽香には感謝って所だな、流石に女子生徒の集団の中に俺は入っていけないし」
 中学の時も同じだったし、小学校の時も一緒だった。幼稚園は三人とも行っておらず、託児所も幼稚園も学童保育も全て道場で過ごしていたからだ。
「廉にも、感謝している。
 もしも廉がいなかったら、私は……未だに悩んでいただけだっただろうから」
 羽香と言うのは、香流の同門で親友だ。羽香は小学生の頃までは結構熱心に通っていたのだが中学受験で一度離れ、何の偶然か高校で再会した。とは言っても、香流と羽香の交流は深く静かに続いており……とは言っても、やはり近所なのでそう難しい事ではない。
「本当は、少し心配だったけどな。事情を知ってる奴は少ないほうが良いだろう?」
「アレがもう少し、状況に対して歩み寄ってくれれば話は楽だったのだが……」
 香流が言っている「アレ」とは、双子の弟である比良の事だ。
 高校に入る前から、香流は比良の事を名前で呼ばなくなっていた。以前は、香流が比良にべったりくっついているとても仲の良い双子の姉弟で似ていない事もあって近隣では随分と噂になったくらいだ。
 しかし、それは高校受験の一年近く前に無くなった。
 弟にべったりとくっ付いて離れない姉が、突然弟にくっつかなくなったのだ。そして、今度は逆に無口で寡黙で硬派だと言われていた弟が姉にべったりとくっ付くようになり。それが辟易をしていたのか、香流はどんどん口数が減って趣味も変わって行った。
「まあ……比良にも、比良なりに考える事があるって事じゃないのか?」
「だと、良いのだがな……」
 香流の久樹家と廉の向坂家は隣同士で、お互い当然の事ながら駅まで徒歩二0分と言う所だ。二人は、その道を朝の空気の中でのんびりと歩くのが常だった。
「そうだ、そう言えば比良は? 最近見ないけど?」
 三人目の比良は、高校進学当初までは一緒に登校したり。寝不足になって遅刻ぎりぎりの電車に飛び乗ったりしていたものだが、最近になってあまり見かけなくなったと廉は感じていた。
「ああ……アレなら、最近は何やら自転車に目覚めてな」
 香流は「あんな巨体で電車に乗られるのも堪らないが、あれだけの巨体で自転車にて暴走されるのも迷惑だ」などと言っている。確かに、三人の通う斑鳩学園は電車よりも自転車で行ったほうが効率が良い。特に、東京本校に比べると設備には格段の落差があるくらいだが、だからと言って文句を言っても現実は変わらないのだ。
「駅三つ程度なら、あの体なら大した事ないってわけか……流石は比良」
 僅かに香流の態度が硬化したのだが、それはあくまでも長年の付き合いである廉だからこそ判る反応だった。そして、香流は聞く耳を持ちたくないのかあえて反応した事や会話を無視して先を進む。
 だから、一瞬遅れたのだ。
「あ、あのっ!」
 イライラしていたのは、問われれば偽らずに答えただろう。しかし、反射的な運動行動と言うのは恐ろしいものだ。特に、香流は長年培っていた感覚から対処しようとしてしまい……それは、良くも悪くも阻止された。
「お前さん、誰?」
 廉の声が無かったら、香流は間違いなくいきなり現れた少年に対して何らかの行動を起こしていただろうと言うのが判って。声をかけてきた廉に対して感謝と、そして行動を起こさずに済んだ自分自身に、ほっとした。
「あ、あの……これ、読んでください!」
 今時珍しいほどの純情ぶりで差し出してきたのは、どう見ても一通の手紙だ。
 見ているだけで微笑ましい気分にさせてくれる言動は、あくまでも当事者でなければと言う制限が付く。実際、当事者になってしまうと朝の早めではあるが同じ駅を使う人たちや同じ学校、違う学校に通う人達などが居るのにこの状況と言うのは。
「で、あんた誰?」
 正直、居た堪れない。
「貴方が……付き合ってる人が居るのは知ってますし。僕じゃ勝てないって事もよく理解してるつもりです、だから大それたことなんて考えてないんです、でもこのままだとどうしても我慢出来なくて……!」
 が、周囲の反応は大多数が同じものだったりする。
「あのさ……って言うか、それ以前の問題として……」
 ちなみに「ああ、またか」と言う比較的同情的な視線だ。どちらが、と言うわけではなく両方に平等に注がれる視線だ。
「どうしても、知っていて欲しかったんです」
 腰から直角九〇度に腰を曲げると言う姿を見られるのは、今時では商業的な地位にある人だけではないだろうか?
 そんな風に思わせるほど、硬くて冷たくて鋭い空気だった。
「私は、久樹香流と言う……君は、誰?」
 香流は、静かに口を開いた。
 その声は、まるで岩に染み入るかの様に広がって、行った。



「で……それから、どうなったの?」
 斑鳩学園と言うのが、香流、廉、比良の通う高校だ。とは言っても全国規模で有名なのは東京の本校だけであって地方の付属学校は付属と言ってもほとんど名ばかりと言う程度の系列でしかない学校が多い。
 ここもその一つではあるものの、曲がりなりにも東京の大学部には優先的に進学出来ると言う評判があって進学率や受験率は近隣ではかなり高い方だ。これから中等部が新設されると言う噂もあるが、すでに高等部になっている面々には全く関係がない。
「名乗ってきたので、返事は後日改めると告げただけだ」
 教室に入った香流と廉を、どこから情報を仕入れたのか親友の羽香が聴いてきた。
 外見は中世的で身長も香流より二〇センチは高いと言う羽香は、どちらかと言えば本名よりも色々な呼び名での方が有名だ。
「ひゅうひゅう、香流ちゃんもってもてぇ」
「茶化すなよ? 『若様』に言われても嬉しくもなんともない。
 貴様はせいぜい、『姫様』相手に七転八倒でもしているが良い」
「ああ、それはいいなあ」
「うっさいな、廉!」
 外見の事もあって、羽香は「斑鳩学園のオスカル」と言う呼び名を貰っている。
 中学の頃は文化祭の舞台でやった「ベルバラもどき」で大変評判を貰い、相方だった通称『姫様』ともどもえらい有名人だ。
 その羽香と廉は、昔から微妙に仲が悪かったりするのが香流の解明できない謎の一つだ。
「けど、度胸あるなあ。久樹に彼氏が居るなんて有名な話なのにな?」
「加藤……私は、別に誰とも付き合ったりしていない。恋人も居なければ彼氏彼女と言う間柄の関係者は一人もいないぞ」
 憮然とした態度の香流を見て、新たに現れた加藤清晴は苦笑する。
 以前、清晴は香流に告白をして玉砕をしたからと言う過去があるのだ。
「面倒だって思うのなら、誰か適当な彼氏でもつけておけばいいのに……廉じゃ、役者が不足だって良い証拠だけどねえ?」
 ちらりと羽香が廉を見たが、廉の方は飄々と余裕の表情を見せるだけだ。
「そうだなあ、もう少し香流が素直に彼女らしい態度を取ってくれれば周りに誤解されずに済むんだけどなあ。俺としては、これからもっと積極的な行動に出ないといけないなって思ってる所だし」
「け……ケダモノ!」
「何がだよ……」
 全く持って余裕の表情を浮かべたままで一時間目の支度をしている香流を見て、思わず清晴が声をかける。
「いつも思うんだけど、あの二人を止めなくて良いわけ?」
「大した問題ではないだろう? それこそ、そろそろ……ああ。来たな」
 顔の向きを変えるでもなく、時計で確認するでもなく、香流の発した言葉に従ったかの様なタイミングで。
「毎朝毎朝、いい加減にしろよ手前ぇら!」
「なるほど……」
 新たな存在が、開口一番雷を落とした。
「なんだよ加藤!」
 幾分キレ状態のままで言ってきた為、別に気弱と言うわけではない筈の清晴は肩をすくめた。と言うより、それ以外の方法が思い当たらなかったと言うのが正しい。
「いや、なんでも……おっす、緋女」
「……ああ、おはよう」
 ぶっきらぼうに言ったのは、少し眺めのウェーブの髪が美しい。サングラスをかけた少年だ。
「今日も息災だな、真」
「おう、久樹姉も元気そうだな。噂聞いたぞ」
「耳が早いな……」
 容姿が良い人物と言うのは、得てしてイメージ道理と言うわけにはいかない。ほとんどが容姿のせいでろくな目に合わないためにひねくれた育ち方をするのが普通で、彼らの知っている内で顔とイメージ通りの存在など聞いた限りでは斑鳩学園の東京本校に居ると言うスーパー高校生くらいしか知らない。とは言っても、別に興味があるわけではないから調べた事はないので真相は闇の中なのだが。
「さっきの今なのに、妙に『姫様』は事情通よねえ?」
「……『若様』は俺に朝っぱら喧嘩の一つでも売ってたりするんですかねえ? 買うぞ、今なら言い値で」
「じゃあ、お昼のランチセットで」
「羽香っ!」
 いつもの事だと周囲は判っているのだが、こうなると最早SHRまで二人の言い争いは止まらない。止めようとしても無駄な努力で、この二人はお互いでどう見てもじゃれあっている様な会話しかしていないのに、あくまでも本気で言い合っているのだと言って聴かないのだ。
「ああ良かった、やっぱり『若様』の相手は『姫様』に限るな」
「廉……もしかして、お前がそう言う奴だから羽香はお前に突っかかってくるのではないのか?」
 廉が少し心地よさそうなため息をつきながら「そうかもなあ」と言っているが、その当たりの状況を見て判っているのにも関わらず対処しようとしない香流と言うのも相当な性格だ。正直、清晴はどうしたものかと悩みかけてから考えるのを止めたくらいだ。
「ところで……妙に『姫様』の情報が早かったと思わないか?」
「ああ、廉も気がついたか……余程多くの者に見られていたのか。それとも、事情通の者が観客の仲に居たのか、それともと言う所だな」
 喧々囂々と続けられる二人の「名物」の言い合いの横で、冷静に打ち合わせをする香流と廉……このサイクルを見る限り、確かに踏み込めないものがあると考えるのは当然の筈なのだが。何故だかいつもよりも深くてどす黒いイメージがまとわり付くのを、清晴は感じずには居られなかった。
 もっとも、それも数分間の事ではあったが。
「あ、おはよう。久樹くん!」
 廊下では、今日も「またかあ」とうなりたくなる光景が見えていた。
 花魁道中ではあるまいし、比良が現れた途端に女子生徒達が遅刻ぎりぎりの時間まで黄色い声で騒ぎ立てるのだから困ったものだ。別に、比良はモデルとかテレビに出ている芸能人とかではないのだが、妙に女の子相手に手馴れている感じがするのと顔の硬派なギャップが堪らないらしい。
「よ、香流。廉。
 なんだあ? また羽香と緋女は朝から喧嘩かあ? 飽きない奴らだなあ……で、今日のネタは何?」
 遅刻ギリギリとか、遅刻をすれば話は別だが。
 基本的に、授業に間に合う時間までに学校に付いた時の比良は必ず香流と廉のクラスに顔を出す事にしている。香流は比良の実の姉であり、側に廉がついていたり、何かと話題の漫才コンビとか影で言われている若様姫様コンビが親友扱いになっていることもあって苛められた事は一度もない。
 もっとも、香流も比良も知っている限りでは何人か比良に声をかけたり会話をしただけで周囲から敵愾心を持たれる女子生徒などが居た事を知っているので。可能な限り事態を回避させたりしているのだが、上手く行かないのが世の中の常である。
「原因は私だ、比良」
「香流が……また何かやったのか?」
「またとはなんだ、またとは。お前、私のことを見くびっているだろう」
「そう言うわけじゃないけど……なんで?」
 最後の台詞は、このまま香流と話していると埒が明かないと言うか。別の方向に話が流れていきそうだと感じたから、廉に話の方向を向けたと言う背景があったりする。
 そんな言葉バレた日には、更に機嫌の悪くなった香流からお説教をくらうのは目に見えて明らかなのだが。
「こら、比良!」
「つまり……そもそもの原因は、コレ」
「あ、廉! 貴様、人の手紙を……!」
 手品のようにひらりと廉が手の中から出したのは、今朝。香流が貰った手紙である。
 一応、中身は香流が目を通してあり中に入れなおしている。ちなみに、あて先が香流のものである為に廉も中身は見ていないのだが、大方の予想通りにラブレターなのは言うまでもない。
「そう言うわけかあ……はあ、参るなあ」
 言うと、比良は何やらぶつくさと文句を言い始めた。
 全てを聞き取るのは出来ないのだが「これだから無自覚な奴は」とか「本当に判ってないのが問題で」とか「とっとと手を出せば良いのに」などと少々物騒な物言いをしている。
「比良くぅん? なぁにを、あたしの居ないところで香流に関する物騒な独り言をぶつぶつと言ってくれちゃったりしれくれてるわけなのか、聴いてみても良いかなぁ?」
 本格的に教室の入り口で悩み始めた比良の前に、立ちふさがる影……もとい、羽香。
 誰かが比良の思考の済みで「珍しく予鈴前に痴話喧嘩終わったなあ」とか「誰が痴話喧嘩だっ!」とかいった会話が端々で繰り広げられていたりするのだが、そんな余裕を残念ながら比良は持っていなかった。
「ええと……羽香?」
 たらりと汗が無意味に流れるのを、比良は感じていた。
 こう言う時の羽香は本気で怒っているので、下手にごまかそうとすればろくな目に合わないのは経験から来る警告だ。
「なぁにぃ? あら、二人っきりでお話がしたいですってぇ? 嫌だわぁ、比良君のファンに殺されそうじゃないのぉ、あたしばっかり悪者になんて当然しないわよねぇ?」
 比良は、心の底から「勘弁してください、オネガイシマス」と言いたくて堪らなかった。
 堪らなかったが、人間と言うのは非常に便利なものでどうにかなる事とどうにもならないと言うものを嗅ぎ分ける本能があったりする。
「羽香」
「……何よ、香流」
 他の人が言ったならば話は違っていただろうが、声をかけたのが香流だったので反応は完全無視と言う事にはならずに済んでいた。
「トドメを刺すには時間が足りない、せめて一時限目にまでは戻ってくる様に。
 流石に、代返とノートコピーではカバーしきれないのが授業と言うものだしな」
「香流ぅっ!」
 にやり。
 確かに、香流の表情はそんな感じで一度ゆがみを見せた。
「さあ、比良さぁん? お姉様のお許しもいただいた事ですしぃ、一緒にお茶でもいただきながらぁ、じぃっくりとお話でもしましょうねぇ?」
 羽香が睨みつけながら比良の襟首を掴んで教室を出て行くのを確認すると、緋女が大きなため息をついたのを香流は見た。
「……やっと静かになった」
「真、案外人が悪いな」
「久樹姉に言われたくない」
 緋女真は、本人は間違いなく否定するが武士羽香と恋人同士だ。
 無論、その関係については羽香の方も否定するが……世の中、ままならいものだ。