その1・冷徹とおきゃんの間


 午前4時半。
 町はまだ眠りの中にあって、当然のことながら空が白じんできたと言う程度の時間。
 しかし、そんな中であろうとドロボウと一部公務員と流通関係者以外にも目覚めて活動している存在があった。
「おはよ、香流」
「廉……早いな」
 そこは、静謐な空気に支配された広すぎず。ましてや狭くもない、板張りの場所。
 一般的には「道場」と分類される場所であり、当然と言うべきか否か着物と袴を身に付けば長い髪の少女が居た。そこに居て絵になると言うより「居て当たり前」と言う風に見える、今時にしては珍しい風貌の少女だ。
「いやいや……今日こそは香流の掃除前に来てやろうと思ったのになあ」
「廉が夜更けまで起きているのが悪い、早く眠れば早く目覚めるのは自明の理であろう」
 入ってきたのは、廉と呼ばれた少年だ。
 香流と呼ばれた少女より確実に頭一つ分よりも背が高く、髪も薄茶になっている。が、これは染めているのでは無く単純に彼の色素が薄いからに他ならない。
 格好は、香流と同じく着物と袴姿だ。
「比良は?」
「あれで私と同じ時間に目覚められるのならば、それは化け物と分類されるべきだろう」
「なるほど……でもさ、『以前の比良』だったら結構可能だったんじゃないか? 最初の頃は文句言いながらここで一緒だったんだし」
「廉、人は須く状況になれると言うものだ。
 私も、当初は大変困難だと思っていたものだが。以前より遥かに状況は改善されている」
「確かにそうかも……んぢゃ、始めるか?」
 言って、廉は手にしていた竹刀を掲げてみせる。
 香流と廉は、毎朝示し合わせたわけでもないのに早朝からこうして修練に励んでいた。
 これは、以前は香流ではなく比良と言う男の子と廉の行っていたものだったのだが。いつからか比良ではなく香流が、その代わりを務めるようになっていた。
「では支度をしよう……それにしても、毎度毎度こればかりはいい加減に辟易するな。
 以前ならば、防具など付けずとも全く問題はなかったし。今では大分慣れたのだから……」
「俺がヤなんだって、香流の体に傷つけるのは」
「やはり……アレが文句を言うからか?」
 香流は、僅かに眉をひそめた。
 日本人形の様な艶やかな髪をまとめあげ、切れ長の瞳を曇らせる姿は凛とした美しさがある。言葉には明らかに「面倒」だと言わんばかりの音を乗せてはいるが、ここで駄々をこねても何もならない事を知っているのか慣れた手つきで防具を付けてゆく。
「それもあるけど……俺が、香流の体に傷を付けたくないわけ。比良の時だって、本当は傷つけるの嫌だったし」
「廉……比良は、あれでも男だぞ?」
 仮面をつけた香流が、少し笑みを含めた声で言ってくる。
「ああ、知ってるぞ。同じ風呂にも入った事あるし、同じ更衣室で着替えるしなあ」
 廉の方も、何か含めたものの言い方をする。その意味の半分以上を知っている事もあるからか、香流は特にそれ以上を言う事はなかった。
「言っておくが、廉」
「ん? 何?」
「実戦を想定するのであれば、本当は防具などない方が良いのだぞ?」
「まあ、そうなんだけどね……けど、香流強くなったしなあ。手加減なんてレベル、もう出来ないし」
 長年の気配から、廉は香流が笑ったのだと言うことを感じた。
 先程の色々と含みがある笑みではなく、心の底からの笑み……何度も見てきたその笑みについては、あまり良い思い出を感じないのが悲しい所だ。
「当然だ、これまでの積み重ねは伊達ではない」
 ぴしゃりと言い切る香流を見て、廉はくすくすと笑いを浮かべる。
 香流には防具を付ける事を強制した廉ではあるが、当の廉は身軽にも防具の類を一切つけてはいない。
「まあ、香流って言うよりは比良の経験の方が高そうだけど?」
「その当たりについては……致し方ないとしか言い様がない。
 では、始めるぞ」
 香流は側にあった木刀を、廉は手にしていた竹刀を持って打ち合いを始める。
 木刀と竹刀では重さなどからハンデがある様な気がしてならないのだが、ここ数ヶ月の間に関して言えばそれでちょうど良さをカバーできたのだから良かったのだ。
 ただ、流石に廉が言ったように二人の実力は鍛錬のおかげか大分拮抗してきた様子を見せている事もあって見るものが見れば、なかなか面白い感じに仕上がっているように見えるのだろう。
「ありがとうござました」
「ありがとう……ございました。やはり、まだまだ廉には叶わないな……」
 息を詰めて、香流が木刀を下ろして面を降ろす。
 激しい打ち合いともいえなかったのだが、顔は紅潮して息も多少は荒い。二人の骨格の問題もあるのだが、多少は疲れたのか少しばかりぼうっとした様子だ。
「ま、一応は年季が違いますから」
 おどけた拍子で言う廉ではあったが、その態度が香流にとって何一つ慰めになっていない事を反応で理解してしまった。
「……あんまり、気にするなよ」
「ああ、承知している」
 吐く息は、とても廉の言う事を信じているとは言えない。しかし、廉にはそれ以上をどうする事も出来ないのも事実なのが歯がゆさを感じる。
 当の香流と言えば、廉の気持ちが判っているのかいないのか反応は半分と言った所だ。
「あれ、もうおしまい?」
 どこか、眠たげな声が響いたのはその時だ。
「比良……今頃起きたのか?」
 道場に入ってきたのは、凛々しい顔つきをした長身の少年だ。青年といっても差し支えない感じではあるが、どこか身にまとう空気が幼さをかもし出している。
「おっす、廉。香流」
 彼が、先程から話題の端々に上っている比良。
 香流の二卵性の双子の弟で、二卵性とは言ってもなかなかに似ていない。
「おはよう、比良……どうかしたか?」
 比良は、香流を見て顔をしかめた。
 こんな表情、数ヶ月前まではついぞ見られなかったものだ。今でも、その表情の無かった比良が顔を動かすとあちこちから驚きの声があげられ、その事もあって地域のファンが急増しているとかいないとか言う噂がある。
「香流、ダメ」
「……何がだ?」
 しばしうめき声を上げたかと思うと、おもむろに比良がそういった。
 いきなりの台詞で、香流は当然何事かと言う顔する。ふと見てみれば、廉は何やら複雑そうな表情をして……どちらかと言えば、笑いを堪えているかの様な感じだ。
 瞬間的に、比良と廉が視線だけで会話を成立させたのを理解したものの。その内容までは理解出来るはずもなく、香流の表情は眉根が寄るほどに不機嫌な感じに見える。
「そう言う、無防備な表情したらダメだって……俺とか廉なら、まだ何とかなるけどさあ。
 言っておくけど、念の為に外でそう言う表情したらダメだからね? 香流の体は香流だけのものじゃないんだから」
 態度からして「勘弁してよ」と物語っているのだが、香流にはどうして比良がそう言うのか全くわからないらしい。
「そう言うとは、どういう事だ? 廉、貴様はわかるのだろう?」
 問われて、廉は複雑そうな表情を深める。
 しかし、どうやらまともに答える気はまだない様だ。
「ああ……まあ、ねえ?
 って言うよりさ、比良ならともかく。なんで俺だと『まだなんとかなる』なわけ?」
「言っていいわけ?」
「……却下」
 再び、男同士で何やら視線を含めた交流があったらしく。
 疎外感を味わう事や、他にも色々考えた上で結論を出したらしく香流が立ち上がる。
「あ、香流。怒った?」
「……どうでも良い」
 片づけを終えて出て行こうとすると、比良は上からものを見ている様な言い方をした。
 少なくとも、香流はそう思った。
「まったくなあ……廉も苦労するよな、俺の頃は全然気がつかなかったけど」
「いやいや、俺は楽しんでるよ? この状況。って言うより、前のも良かったけど今のもすごい楽しいし……」
「「他人事だからだろう」」
 ぴしゃりとハモった台詞を言われて、一瞬だけ廉の動きが止まった。
「さすが双子……只者じゃないよね」
「まあ、只者じゃないとは思うけど……何してるわけ?」
 こちらを見ずに立ち去った香流を目で追っていた比良は、そのまま廉に尋ねた。
「掃除。やっぱり、始まる前の掃除をやってもらって。相手までしてもらったら終わりの掃除くらいはするものでしょ? ほら」
 ずい、と出されたのは絞ったばかりの雑巾だ。
 ちなみに……絞った廉の手が真っ赤になるほどに、冷たい。
「て……俺、やってないんですけど? って言うより、ほとんどやった事ないんだけど」
「そんな事ないでしょ? 比良はずっとやってたよ、香流が戻ってくる前からずっと」
「でも、それは俺じゃないし……」
「比良」
 何かにつけて逃げようとする比良に、廉が睨みつける。
「今まではそれでどうにかなったかも知れないけど、これからはそうはいかない。
 このままの状態がいつまで続くか判らないし、何より『お前』はともかく向こうは相当ぴりぴりしてる……下手すると、爆発するぞ?」
「けど……なあ、だったら廉からも言ってやってくれよ。
 これまでは仏頂面してようが何してようが、大した問題じゃなかったさ。けど、今の香流はダメだろう。あんな顔されたら悪い虫がどかどかやってくるぞ?」
「判ってる……」
 比良が雑巾を受け取った事もあって、廉も己の雑巾を使って道場を掃除する。
 この道場、基本的には現在は香流が掃除などの手入れを行っているのだが。数ヶ月前までは比良が行っていたので、確かに比良も結構手際よく掃除をしてゆく。
「判ってても、やらなかったら意味ないだろう?
 俺だって結構大変だよ、思ってたのと違う事もあるし。もうちょっと楽かと思ってたし、そりゃあ今までは見てるだけだったから印象とか感触が違うんだろうけどさ。今の方がよっぽどストレス少ないし?」
「その当たりは俺には理解出来ないけど……な」
 流石に、少し寂しそうな廉の表情で何かを感じたのだろう。多少は申し訳なさそうな、それでいて素直になれないらしい感じで比良がガリガリと頭をかく。
「いや、まあ……理解されても困るって言うか……って、廉?」
「香流が出た頃だろうから。お風呂借りて汗流してくるだけだよ、それとも見たいか?」
「すっげえ見たい」
 廉としては茶化してみただけなのだろうが、あっさりと「見たい」といった比良の表情は真面目だ。正直、事情を知らなかったら本気で男の裸を見たいのではないかと錯覚してしまいそうになるくらいだ。
「二度寝でもしてろ……」
 道場には、更衣室の他にシャワールームがある。しかし、真夏とかならまだしもきの気温の中でシャワーを浴びるのは風邪を引けと言うのと同じ意味を持つ。
「ああ、そう言えば前はよく二人で一緒に風呂入ってたよな」
 呆れた様子の廉に比べて、比良はにやにやとした顔だ。
 明らかに状況を楽しんでいる……こう言うところは推奨するし、こう言う所を少しは香流も見習えば良いとたまに廉ですら思うが。
「それで何か問題でも?」
 しかし、ソレは嘆いた所でどうにかなると言うものではないのだと言う事を知っていた。
「いえ、特には……別に?
 そりゃまあ、今やったら大問題ですけどね?」
「馬鹿も休み休み言え」
「二度寝しろって言ったくせにぃ」
「じゃあ、寝言は寝て言え」
 わいわいと騒いで……と言うよりも、比良が一方的に廉にまとわり付いていると。
 早々に風呂から上がったらしい香流が、歩いてくる。
 どうしてこんなに自然に廉がこの家に居るかといえば、お隣さんで幼馴染で同門で、ついでに言えば。
「廉、おじ上はどうだ?」
「それなんだけど、まだ学会から帰ってこないんだよな。予定ではそろそろ帰ってくる筈なんだけど……紅葉母さんは呆れちゃってるし、自分の担当じゃない患者押し付けられてるって」
「そうか……」
 廉の自宅は向坂医院と言う開業医を営んでいるので、隣に住んでいる事もあって向坂家は香流と比良の久樹家の主治医扱いになっている。
「義人おじさん、最近妙に学会多くねえ?」
「あれで妙に人気があるらしいからなあ……どうしたものか。いっぺんシメないとダメかって思ってるけど」
「おいおい……紅葉おばさんに怒られないか?」
「大丈夫だって、俺の前に紅葉母さんがやるか。俺を先にさせてくれたら『トドメを指すのは譲らない』って言われるだけだから……て、香流? 親父に何か聞きたいことでもあるのか?」
 聞きたい事を聞き終わったせいか、香流は台所に向かって歩き出していた。
「紅葉母さんじゃ、ダメなのか?」
 向坂紅葉は、廉の二番の母親で後妻だ。しかし、別に関係は悪くはない。
 実母とはかけ離れた存在だからかも知れないのだが、そのあたりは当人同士の問題と言う事で久樹家では誰も深く追求しようとはしない。
「駄目だというわけでは……どちらにせよ、とりあえず廉は先に汗を流してくるんだな。
 ぼやぼやしていると、朝食どころの時間はなくなるぞ。お前もな」
 久樹家の長子であり、双子の姉である香流は威厳を持って言った。
「あ、やべ……」