その15・かけっこと鬼ごっこのうさぎ跳び


 その音は、あくまでも「ざくり」としなくてはいけない筈だった。
 とてもではないが「ぎぃん」などと金属音の触れ合う音とかがしてはいけないし、それはむき出しになった滑らかで柔らかい皮膚を裂く為に振り下ろされたもので。事前に、しかも真白いもので膨れ上がったものに遮られたりするべきではなかった。
「はっ!」
 あまつさえ、起き上がって死角から反撃を食らわすものではなかった。
 その、筈だった。
「ひゃぁぁぁっ!」
 だから、そうして繰り出された攻撃が正面から勢いをつけて繰り出された事は計算外だったし。そうして無様にも床に転がりながら、頭を壁だか薬品棚だかにぶつけたのも「あってはならない事」に他ならなかった。
 今、この状況における全てが。
「こんなものでも、一応は役に立つものだな……貴様、私を久樹香流と知っての狼藉か」
 ベッドから起き上がった両手両足をぐるぐる巻きにした、一歩間違えればアニメのキャラクターといっても差し支えのない日本人形的少女は平然としていた。
 右手のぐるぐる巻きだけが、何かが刺さった状態になっているのがおかしかった。
 手足に巻かれた筈の包帯がどれもほどけかけているのは、少女の行動に物体が着いていかなかったからだと言う話もある。それでも立派に二本の足でリノリウムの床に降り立った少女は、上履きをはいていないと言う点を除けば視線を逸らす事なく倒れた存在にむけられていた。
「う、うう……」
 どうやら、一瞬だけだが攻撃をされた方は意識を失っていたか。夢と現の間をさ迷っていた状態らしい。
「目的はなんだ」
 疑問系ではない言葉は、薄ら寒い空気をかもし出すには十分だった。
 普通の人は、目的もなく保健室で眠っている一生徒をナイフで刺そうとはしない。
 ならば、される可能性を全く考慮していなかった反撃をされた相手は普通ではない。
「私に攻撃を加えたところで、貴様に待っているのは刑務所くらいなものだが……嗜虐心でも満足させたいのか、変質者の持つ犯罪行為だな」
 言っている言葉も格好も良いのだが、手足がぐるぐる巻きでは格好がつかない……。
「な、なにすんのよ……」
 多少は朦朧としているのだろう、頭を擦りながら起き上がる。
「保健室で横になっている一介の生徒を相手に、ナイフで切りつけてくる様な非常識者に『何をする』などといわれる覚えは……ない」
 断言されて、相手は思わずたじろぐ。
 とりあえずだが、香流は今が香流の体でよかったという気がする。
 もしも比良の肉体のままだったならば、攻撃を仕掛けて相手が捕まっても。場合によっては比良もあっさり警察のお世話になる可能性が大きい。
「普通、する? 反撃?」
 と言うのも、比良は剣道二段の腕前だ。段位認定をされてる人種は全身が武器とみなされて問答無用で警察のお世話になる場合だって、ないとは言えない。
「非常識者に常識を問われたくはないな……獲物を持って攻撃を仕掛けるのならば、反撃をされる事を想定するべきだ」
 まあ、段位認定をされてるのは剣道だけなので扱いはまだマシかもしれないが。香流の肉体では、少なくとも公的機関による段位認定はされていないし女の子だから言い訳は非常に楽だ。
「うわ、無茶苦茶だ……こいつ……」
 当たり所が悪くてふらふらしていようが、貧血でまともに立てないのだとしても、ここで取り逃がすつもりは香流にはない。
「他校への不法侵入、生徒への暴力行為、その他諸々全部纏めてしょっ引いてやる。
 覚悟するが良い」
 足元は固められているから多少はふらつくが、両腕は先ほどの動きでかなり動きやすくなっていた。廉が手を抜いたとか言うのであればプライドは傷つくかもしれないが、そんなことはないとばかりにぎゅうぎゅうに締め付けられたのを知っているから。単純にそうされて、それはそれで正解だったと香流は一人ごちる。
「キレてるよ、お前……!」
「先に言っておくが……私はお前を許すつもりも見逃すつもりも毛頭ない。余罪の全てを追及するつもりだ、その顔もしっかり記憶したから逃亡すれば罪はより重くなると覚悟するんだな。
 貴様のみならず、貴様の家族、友人、学校からアルバイト先に至る全ての所に連絡をいれ、貴様が何を行ったのか包み隠さず知らせる。
 それにともない、社会的にどの様な立場に陥るか。その全てを自業自得として受け止めるんだな、どんな場所にあろうとも」
 ぞっとするのを、襲撃者は感じた。
 最初は、単なる興味本位だった。
 内藤旗志……旗志と言う名前は騎士に通じているから、誰かが「ナイト様」と呼んでいるのを聞いた事があった。素敵だと思って、その姿にほれ込んでしまった。
 だから、彼の為に何かしたかった。最初に行動はそれだけだった。
「ち、ちくしょう……お前なんて、お前が……なんで!」
「旗志君の事か……では問うが、私は旗志君に交際を申し込まれ断った」
 香流の言葉に、襲撃者は腸が煮えくり返るほどの怒りと憎しみを覚えた。
 付き合って欲しいと告げられる……それを夢見ている女の子は結構多いし。自分だってそうされたい、そうしたいと願っている女の一人だ。けれど。
「断りを入れたのも、事実だ」
 そうなのだ、香流は断った。
 断られた翌日、旗志はあまりにも迅速に行動に出た。
 香流の通う学校は知っていたのだろう、どう言う理由かは不明だが転校までしてしまった。たった一日で!
「貴様は、断りを入れた事に怒りを覚えている……では、交際を受け入れればよかったと言うのか?」
 違う。
 はっきりと、判る。
 受け入れても受け入れなくても、きっと結局は同じ事だっただろう。香流も、それを判っていて言っている。
 同じ学校だったのならば、呼び出して幾らでも脅して言い聞かせる事も出来たかも知れない。それどころか、苛めて苛めて苛め抜いて、学校を辞めさせる事くらいはしたかも、出来たかも知れない。
 けれど、久樹香流は別の学校だ。
「そ、そうだ……お前なんかが旗志様に申し込まれて、断るなどと……」
 相手の学校に探りを入れたが、駄目だった。
 向こうの生徒達がびびったのか何なのか、手を出せないといってきた。
 臆病者の戯言だと思った、だから駅で待ち伏せた。だけど、せっかくトイレに連れ込んだのに個室に閉じ込めて水をかけた程度の事しか出来ず、中途半端に逃げ出すしかなくて。
「へえ……それって、なんか随分な事だな。初耳だけど」
 だから、最後の手段に出た。
 制服は何とか手に入れる事が出来たから、制服さえ手に入れてしまえば多少の違和感など誰も気がつかないし、仮に危険だと判断したのならば登下校の時間帯は避ければ良いだけの話しだ。
「旗志……様」
「早かったな、旗志君……まだ授業の時間は終わってないと思ったが?」
「いや、そう言う事を言う場面じゃないと思うんだけど……虫の知らせ?」
 笑おうとしたのだろうが、上手く笑えなかったのは自分でもわかったのだろう。
 旗志は、無理に笑うのを辞めた。
「本当は嘘、授業中なのに向坂からメール来た。
 『遣り残した事はきちんと片付けて来る様に』だってさ、なんだか向坂を相手にしてると先生とか相手にしてる気がする」
「ああ……それはあるかも知れないな、基本的に大人にもまれて生活していたのが最大の要因だろう。おかげで、えらく計算高い……」
「それって、僕の事?」
 保健室は一階にあって、ベッドは出入り口と窓との中間地点に二つ並べられている。
 二つのベッドはそれぞれ仕切りのカーテンがかけられる様になっていて、入り口には旗志が。窓には廉がそれぞれ、張り付くように居た。
「他にあるか?」
「うわ、酷いなあ……こうして旗志君に出番だって作ってあげたのに。
 しかも、しっかり間に合ってないし……これって、どう見ても減点だよ」
「これについては、一応の礼を言わせて貰おう」
 香流は、もう良いだろうとばかりに包帯を外した。
 そこからは、皮膚の上に薄くて白い金属板の様なものが貼り付けられている様に見えた。
 するりと落ちたソレは、がこがこんと音を立てて床に落ちる。
「……香流、後でおごってもらうから」
「……廉に頼るくらいならば、旗志君の経由で真にやらせた方がマシだ」
 思い切りついた床の傷を隠すにはどうするべきか、数秒ほど香流と廉は悩んだ。
「逃げられると思うなよ?」
 もっとも、そんな軽口を叩けたのは……その瞬間までだった。
 びゅんっと音を立てて、旗志は手にしていた「いかにも通販で買いました!」と言う仕込み特殊警棒を振り回している。
 香流は少しばかり、頭の隅で「この場合はどこまでが正当防衛を認められるのだろうか?」などと思いつつ、もう片方の手にも仕込まれた金属プレートをベッドの上に外した。
「あんたが誰かなんて事、正直言うと俺は興味ない。
 これまでも無かったし、ついさっきまで無かったさ。
 でも、これまであんたがしてきた事とかって何となく心当たりあるんだよね……偶然会った子が一度目は笑ってたのに。次に会ったらびくびくしてたりとか、そう言うの何度もあった」
 何度もかい、などと廉が口を挟む余裕は無かった。
 当然の事ではあるのだが、旗志はひどく怒っているらしいのだ。
 香流の言った『余罪』と言うのは、あながち適当に言ったわけではないのだろうという確信めいた判断に繋がる。
「けど、周りの奴らには俺には動くなって言ってた。俺が下手に動くと、それだけで話がややこしくなるからって……けど、女子に妙に怪我人が多いのは以前から気になってた」
 確かに、中心的な人物が下手な偏り方を無意味にすると周囲に与える影響は甚大だ。
 仮に、この場合は旗志が動くのであれば。旗志が本気で好きになった女の為か、それとも裏で動いている相手を選ぶかのどちらかでなくてはならない。
 もしくは、この状態を第三者に委ねるかのどちらかだ。
 つまり、生徒会か教師か。もしくは警察に訴えるかのいずれかに相当する……が、どれも基本的には同じだ。道路交通法並の動かぬ証拠が無ければならない、そう言う意味では今回は特殊なケースで幸運と言えば幸運だ。
「これは許せない」
 内藤旗志と言う人物を、誰もが見縊っていたと言う事なのだろう。
 恐らく、真実の彼を知っているのは香流くらいなものだ。比良であった頃からの、交流と呼ぶには微妙な関係……男と男としての些細な約束と、男から女への摩り替わった感情。これについては香流の感情については、未だに男としての意識が根強く残っている様なので恋愛感情には簡単に摩り替わったりしていない様なのだが。
「旗志様、わたし……」
 それを差し引いても、両者には通常とは異なる感情の交流がある。
 旗志があっさりと剣道で有名な高校を見限って転校した理由の一つが自分自身にあることなぞ、襲撃者は考えなかったのだろう。
「その言い方も止めろ、俺は様付けなんてされる様な人種じゃない」
 もしも、彼の両親が嫌味な人種だとしても。彼の名前からしてその可能性は低くて高そうだが、外連味のある人だとしたらしゃれている様な言い方くらいは出来るのだろう。
 日本には、言霊と言う言葉がある。
「わた、し……は、旗志様の為に……」
 言葉の音に含まれる、連なる意思……言葉に含まれる、それは力。
 ゆえに、古来より日本人は言葉遣いを正しく使えと言う風習がある。それは現在ではかなり薄れているけれど、名前にも物にも宿る意味は意思として成り立つ事もある。
 旗志とは、御旗の印である志を持つ者の意。だが、同時に騎士でもある。
「違う」
 騎士道とは中世キリストの精神に則って礼節を重んじ、同時に異教徒を排除する役割を担っていた集団だ。
 しかし、旗志はキリスト教徒でもなければ宗教的な関係など一切ない。
「あんたがしたかったのは自己満足であって、俺の為でもなんでもないさ」
 あるとすれば、幼い頃から培っていた剣道での「礼節」程度の事であり。それすらも、旗志にとっては「やって当然」と仕込まれてきた事に過ぎない。嫌な言い方をすれば「良い子で居れば世間の風当たりは優しいから」と言う言い方も出来るし、少し羽目を外す事があっても日ごろの行いがよければお目こぼしだってして貰えると言うだけの話だ。
「そうじゃなかったら、こんな事はし続けてこない」
 剣道が強くて、馬鹿じゃない程度に頭が良くて、ついでに見目の悪くない顔を持っていれば、少し人に優しくすれば評判はうなぎのぼりだ。
 けれど、旗志は今。
 少しばかり、後悔している。
「今まで傷つけてきた人達、彼女達はこれからだってあんたにやられた事を背負って生きていかなくちゃならない。
 あんた、それを考えた事あるのか!」
「だって……あいつらは全員旗志様をたぶらかすのよ、旗志様はお優しいから、あんなのでも適当とか出来ないのよ。それなら、排除して差し上げなくちゃ……」
 旗志の視界の隅で「ああ、これは駄目だね。イッちゃってるね」などと廉が口走るのが見えたが。床に座り込んで髪で顔が隠れている襲撃者は、旗志以外が目に入らないらしい。
「迷惑なんだよ!」
「そうよ、旗志様の迷惑になるのよ。だから排除しなくちゃ、あんなのにうろうろされたら目障りなのよ、だから……だから旗志様が中学最後の大会で調子が悪くなったのよ!」
 何やら、己の世界に入り込んだ襲撃者を見て。
「香流、もしかしてそれって……」
「その様だな」
 あながち、関わっていないと言い切るのが難しい香流は。
 涼しい顔で答えていた。
 あの入れ替わりが起きて大会に比良が出なかったとき、旗志の成績は散々だった。特に個人戦など初戦敗退で随分と回りに心配をかけるほどになっていた……その頃から、この襲撃者は活動が過激に走るようになったのだろう。
 時期的には、どんぴしゃと言う感じだ。
「あんたがいけないのよ」
 ゆうらりと、襲撃者が立ち上がった。
 垂れ下がった前髪が顔を隠して、どこぞのホラー映画に出てくるお化けだか幽霊だかわからない人種の様に見えた。
「あんたが旗志様を道から外したりしなかったら、旗志様は今頃……」
「止めろよ、それは香流には関係ない!」
 一概にないと言うのも嘘っぱちではあるのだが、あると言ってしまうとその方が問題だ。
 第一、今の状態の襲撃者に何を言っても聞こえないんじゃないかと言う気がする。
「こう言うのもなんだが……」
「止めろ、香流に何をするつもりだ!」
「貴様、もしかして……」
 それは、一瞬の出来事だった。
 襲撃者は、凝りもせずに座り込んでいる状態から中腰になってスピードを乗せて。再び香流に襲い掛かり。
「香流!」
 スタートに乗り遅れた旗志が、どう頑張っても着かない速度で辿りついた襲撃者は。
「廉」
「何?」
 焦って止めに入った旗志は、状況についていけなかった。
 ただ、止めに入ろうと踏み出した次の瞬間には全てが終わっていた……らしい。
「……すまないが、養護教諭を呼んで来てくれ。
 我ながら、少々頭にきていたらしい……やりすぎた」
「ああぁ……確かにやりすぎだ」
 再び飛ばされた襲撃者は、今度は香流の縦回転踵落しによって。
 撃沈されていた。
「おぉい、香流。立てそう?」
「暫く無理そうだ……幸い、ここは保健室だ。少し休む」
 へたり込んでしまった香流は、ベッドにしがみついている様な状態だ。少なくとも、今から全力疾走しろと言われたら変わらぬ表情で「無茶を言うな」と一言の元に切られるのは言うまでも無い。
「その方が良さそうだな。
 じゃあ、俺は先生呼んでくるから。暫くおきないと思うけど、そこの不法侵入者頼んでもいい? 内藤?
 あ、あと他の奴らどうする? 呼ぼうか?」
「後で良い、説明が面倒だ」
 ひょいと廉が消えて、香流は少しばかり苦労しながら足のぐるぐる巻きを解いてからベッドに上がりこんでいた。
 何となく、マイペースな方々である。
「ええと……ああ、判った」
 一人でおたおたしているのは、怒りに燃えて現れた筈の旗志だった。
 ここ一年前後、旗志の周囲で色々とやっていたらしい存在が判明したのは良かったが。
 最終的に、一番良い所を被害車兼加害者になってしまった香流に持っていかれたのは少しばかり……複雑だ。しかも、両手足がぐるぐる巻きになっていたのは薄くて硬い板……持ってみたら、それは金属板だとばかり思っていたらセラミックだった。そんなもので固めてあったから、下手に香流は身動きが取れないと同時に防具になっていたのだから。
「……素手でも強いんだな」
「ああ、うちは剣術だけではなく素手も棒術も一通り教える。基礎は剣道がベースだから剣道を部活では専攻していたけど」