その13・鬱積と暴発の革命前夜


「い、いたぁい……」
「ちょっと今のは危険じゃないのか?」
 鈍い音が二つばかりしたのは、単に羽香と真がお互いしか目に入っていなかったおかげであって。もしも二人の意識がお互いだけではなく周囲にも向けられていたとしたら、それだけで一撃では済まない状況だったかも知れない。
「当然だ、鞄は重量があるしある程度の硬質感もある」
「馬鹿になったらどうしてくれるのよ、香流!」
 がおっ! と食って掛かる羽香は、涙目になっているが可愛らしい。
「心配するな、そうしたら私が責任を持って鍛えなおす」
 握りこぶしを作って宣言をする香流に、嬉しいのか悲しいのかあたふたおろおろの顔色も赤と青と行ったり来たりと言う感じになって。見ている方が笑いを誘われる。
 その、羽香が頭を振るたびに揺れるポニーテールがまた。何やら可愛らしさを増しているアイテムになっている事を、羽香は知らない。
「ああ、香流と二人っきり嬉しいけど特訓はいやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 過去に何があったのだろうかと、周囲が首をひねる一瞬である。
「なんで二人っきりなんだか……大丈夫か?」
「ってえ……ヤバイな、思い切りやられた」
 ぶつぶつと文句を言っている真は、心底イヤそうな雰囲気だ。隠そうともしない。
 普段は面倒な事を避けたがる傾向にあり、それでも巻き込まれてしまう事が多々あるのだが。それでも巻き込まれたらある程度の事は納めるという習性を知っている以上、廉は変化があるのだと思う。
「緋女?」
 どうやら……真は本気で落ち込んでいるらしかった。
 事情はわからないが、どうやら真も幼い頃から何か修練している事でもあるのだろう。その自分が、幾ら羽香と対峙していたからと言って第三者……この場合、廉の攻撃をあっさり受けてしまったのが信じられないと言う所らしい。
「ああ……ええと……」
「羽香、真」
 一人で冷静に見えるのは、香流だ。
 変化激しい羽香と、本気で落ち込んでいる真、それを見て戸惑いながら笑顔を崩さない廉からしてみれば、一番状況を理解していると思われても当然なのが香流だろう。
「二人とも、乱闘は外でしろ。ここでは迷惑だ」
「いや、香流? なんか問題はそう言う事じゃ……」
「廉は黙れ」
 ぴしゃり。
 まさしくぴったりの言い回しで、香流はその場を仕切っていた。
 誰かが思わず「姐さん……!」などと口走りたくなるほど、その姿は惚れ惚れするものだ。これで制服ではなくて着流しとかだったり訪問着とか、とにかく任侠道の世界の人が着ていてもなんらおかしくない格好をしていたらはまりすぎて恐ろしくてたまらない。
「他人の手を煩わせるくらいならば、他人の手の届かないところでやれ。
 教室は、お前達が本気で暴れて良い場所だと。本当にそう思っているのか?」
 状況は改善された筈なのに、クラスメイト達はじりじりと追い詰められている様な気がしてならなかった。
 普段は揉め事に表立って参加する事のない香流が、こうして正面から揉め事を起こした二人に対して説教をしている……今にも「そこへなおれ!」と正座させて何時間でも懇々と言いそうな感じだ。
「はい、とりあえずそこまでね」
 が、どこの世界にも状況を理解出来ない人と言うのは存在する。
 この場合、本当にどこまで理解できていないのか。それとも、理解しているのに出来ないフリをしているのかは判断つかないのだが。
「廉……貴様……!」
 手を、取ったのだ。
 香流の、鞄を握っている。握り締めて硬くなっている、手を。
「香流、その手……!」
「結構意地っ張りだな、久樹姉って」
 香流の手は、ずり向けた痕に治療されて。
 それから、竹刀ですら握る事を禁じられている。どれだけ鍛錬を重ねて、どれだけ皮がむけたとしても、そうして掌紋が消えたとしても体質的に無理だろうと。決して、比良の様な丈夫な皮膚になる事はないだろうと最初に言われていた。
 けれど、包帯で巻かれた手が。
 赤く、染まっていた。
「は、放せ……!」
「駄目、保健室に直行するから……先生にはそう言って置いて」
 香流の固まった手から、血の赤で染まり始めた鞄を剥がし。抵抗する本人を無理に引っ張りと言うより、半ば担ぎ上げて教室から出ようとした廉は……笑顔で。
「あ、そうだ」
 いかにも『今気がついた』とばかりに立ち止まった廉を、その場に居たクラスメイト全員がびくりと。理由の見えない恐怖心に支配されたとして……それは責めるべき事ではないだろう。
「誰か内藤君来たら保健室に来る様に言っておいてくれる? 次の休み時間くらいで良いから。まあ、内藤君のクラスには後で行くけど、通り道だし。
 それと、羽香と緋女は……判ってるよね?」
「廉!」
「ああ、後。比良にもこの事を伝えて置いてくれる? 噂程度で良いから」
「ちょ、待て貴様!」
 廉の言う「噂程度」と言うのは、真実だけではなく虚偽が含まれても構わないと言う言い回しだ。それによって、どんな言葉が最終的に比良の元へ届けられるのか誰にも予測不能だし、本当に噂になって構内中を駆け巡る可能性だってある。その方が余程あるのだが、それは平和に学校生活を過ごしたいと思う人種……意外にも香流はそう言う事を切に願うタイプなのだが、そんな事は迷惑旋盤だった。
「ああ、はいはい……でもね、香流。
 ちょっと、今回ばかりは俺もね、流石に怒ってるんだけど?」
「う……」
 香流の顔には、確実に「しまった」と言う言葉が書いてある様に見えた。
 廉は香流の顔を見ないで、そのままで力は抜かずに保健室まで連行するつもりだと言うのがわかった。このまま暴れたりしても最終的には諸所の関係で勝てないし、ついでに言えば下手に騒げばそれだけで十分噂になる……今更と言う話はさておいて。
「言ったよね、香流?」
 やばい、知られた。
 香流の頭の中は、珍しく単語が二つしか浮かんでいなかった。
「い、いや、これは……」
「言ったよね、俺も親父も」
 状況的に仕方が無かったと言えば、仕方が無かった。
 一人で二人を止めるには、全快していない状態では無理だと言うのはわかっていた。羽香の実力は知っているからともかく、それでも真の実力は全てがわかっているわけではないし、何より人手があるのに使わない手はないのも確かだ。
 けれど、それでバレるのは想定範囲から外れていた。
「ちゃんと皮膚が形成されるまで、一切駄目だって。
 香流? 親父の言うことは聞かなくていいって言ってるけど、どうして俺の言う事は聞いてくれないわけ? 普段は親父の言う事は信じようとするくせに」
 世界的に医療学会の権威である向坂義人の事を、尊敬するかの様だと自分自身でも香流はおもっていた。実際、医療関係の知識のほとんどは廉を通して義人から受け継いでいるのだから尊敬しないわけにもいかない。
「そ、そう言うわけではないぞ。だって私は……」
 しかも、今回は珍しく日本に帰っていた。そしてささっととんぼ返りをした義人が見てくれた怪我を見て、廉と同じ「皮膚が形成されるまで稽古禁止」と言われていたのは確かで落胆したものだ。
「おかしいと思ってたんだ、あれから何日も経ってるのに全然香流の手から包帯取れないし。朝だっていつも通りだって思ってたからあんまり気にしてなかったけど、いつも通りだったから気にしないといけなかったのに」
「いや、だが……廉!」
「香流……問答無用って言葉、知ってる?」
 普段ならば「私を馬鹿にしているつもりか?」などと一笑するところだが、今それをするのは思い切り躊躇われた。
「だって、稽古は……!」
「掃除も走りこみも、全部稽古の内でしょ」
 稽古はしていないし、木刀どころか竹刀だって握っていない。
 そう言おうとしたら先回りをされてしまって、香流は口をつぐむしかない。
 傷には触らず、けれど決して放してくれない手は廊下を歩く生徒達から見れば格好のゴシップだ。ただし、相手が香流では下手な事を噂して情報源だと知られると大抵がぼこぼこにされてしまうと言う結果が手をこまねいて待ち望んでいるから大げさな噂にはならない……その方が性質が悪いのだが。
「なんだって手の平も足の裏も怪我してるのに、そんなことするわけ!」
「休めば、その分だけ実力が下がる……ただでさえ、私は……」
 空を飛ぶ鳥や飛行機は、その筋力や推進力だけで飛んでいるわけではない。
 大気を流れる風が、空を形成する空気の層に乗って羽ばたく。香流は、何やら理不尽な目に合わされている気がして溜め込まれた気持ちを一気に爆発させるために……。
「いつまで固執してるわけ?」
 がらりと開かれた保健室の扉は、養護教諭の背中が出迎えてくれた。
「先生、治療お願いします」
「ん……急ぎ? ちょっと急ぎの書類書いてるから少しだけ待っててくれる?」
「じゃあ、適当にやってます」
「へ? ……って、向坂と久樹姉の方か。
 なんか最近すっかり常連さんって感じじゃない? 優等生二人が保健室の常連って言うとエロライトノベルみたいだけど」
 妙な笑い方をするが、この人はこれでも十分真面目な人だというのを知っている。
「先生、またどこかのサイトで変な小説でも読みました?」
 少し呆れたような口調で言うのは、この会話にもそろそろなれてきたからだろう。
「資料集めにちょっとねえ、でもイマドキの子ってすごいね。あんなのよく想像で書けるよ。まあ、それも若さゆえって奴なんだろうけど?」
 養護教諭に言わせると、世の中に氾濫している情報の少なくとも半分は若者が作り上げているそうだ。実年齢と精神年齢のどちらかに分類はされるかも知れないが、本当の大人が書くには夢見がちな文章が多すぎて、そう言うのに限って実際に体験するとあっさり書くのをやめるか止められなくてその文体が続くのかのどちらかになると説明してくれた。
「先生、その書類急ぎじゃないの?」
「いやあ、急ぎだよお? なんて言うか面倒臭いしイヤになるし。しかも正式な公文書だし秘密文章みたいなものだから生徒には見せられないし」
 時間がないのは本当らしく、かりかりと急いでかいているのはわかった。
 不思議なのはパソコンで打ち出すのではなく手書きだと言う所で、養護教諭に言わせると「本当の公文書って言うのは、今でも手書きの方が需要が高い」と言う意味不明な事を言ってくれる。
「んで、久樹姉さんの怪我の具合はどうなの?」
 まるで医者が看護士に言う様な感じではあるが、廉は医者の息子で馴染みがあるせいか違和感があまり感じないのが不思議だ。
「無理しすぎって感じです」
「ありゃりゃ……久樹姉さんも、もう少し肩の力を抜いて生きればいいのにねえ?」
 当事者を目の前にして批評と言うか批判するのはどうかと言う気がするのだが、香流は何やら二人の共通するものを感じて下手に口出しを出来ない状態だ。
「それは無理でしょう、もう体に染み付いてるんですから」
「うわあ、人生を楽しんで生きられないのって大変ねえ」
 体に染み付いているのは比良の方だ、とか言う事は出来ない。
 養護教諭が居るせいでもあるし、居なかったとしてもいえなかっただろうと言う気はする……どちらにしても、居たたまれないのは確かだ。
「痛い、香流?」
 廉に出来る治療と言えば、包帯を外して怪我を消毒して、もう一度包帯をぐるぐる巻く事くらいであって。それは養護教諭にだって変わるわけではなくて、医療知識があるって言う事と同じ程度のことしか出来ないと判っているから養護教諭は廉に治療を任せたのだろう。
「大した事では……ない」
 血で汚れた包帯を取って、ガーゼを取って、滲んだ患部を消毒液で浸されたガーゼでぬぐう様に押し付けては取り替える。学校の備品だと思えばこその、贅沢にも一度や二度ちょんちょんと使っただけで次のガーゼに取り替えるのは香流にしてみれば「勿体無い」と言う気にさせるものだ。
「ふうん……その割には体は正直だけど?」
「うひゃひゃひゃひゃ! 向坂、その言い方いい! エロくて!」
 養護教諭は悪い人ではないのだが……いや、性格は悪いのだろうけど。とりあえずノリが良い所が人気の秘訣なのは間違いないだろう、それでも良くも悪くも真面目だからアイドルちっくな異彩は放たないけれど「そこに居て当然」と言う印象を与える。
「じゃあ、この書類届けてくるから。
 向坂、あたしがいないからって久樹姉さんを襲ったりするんじゃないよ!」
 結局のところ、自分では何もしないで部屋を出るところへ「怪我人襲うほど鬼畜じゃないですよ」とか廉も返したりする。
「襲うのか?」
「……はあ?」
 消毒をしている間、香流は己が情けない気持ちのゲージが上がるのを感じる。
 今の肉体は本当に全然全くこれっぽっちも鍛えていないから、すぐに怪我をしたり貧血になったりする。もっと幼い頃から改善しておけば少しは早く丈夫になるかも知れないが、ここまで育つと少し時間がかかるだろうと香流は自己判断を下している……そう言う時に限って、比良が平然と無茶をするのを横目で睨み付けたい衝動にかられるものだが。
「私が怪我をしてなくて、保健室に二人きりだったら襲うのか?」
 香流の言葉に、廉が面白そうな顔をしている。
 手つきは、余計な消毒液を乾いたガーゼで取ってから化膿止めの薬品を塗りたくり。少し乾いてから、ガーゼをかぶせている所だ。
「香流は怪我とか倒れたりしてないと、保健室なんて来ないでしょ……それに、ちゃんと布石も打っておいたしね」
「布石?」
「内藤」
「ああ……ん?」
 では、怪我をしていても二人きりになったら襲いそうな気分になりそうだと言うことなのだろうか?
 考えてみたら恐ろしい結論に達してしまって、ぐるぐると大げさなまでに巻かれた包帯に対して香流は考え込んでしまう。
「打ち合わせ、しておかないとね」
「……ああ、うん」
 どこか、納得していない香流を廉は笑いながら見ている。
 何について笑っているのか聞いても、きっと廉はまともに答えたりしないだろうと言うのが容易に予測できてしまって。
 香流は、余計に腹立たしさを覚えた。
 けど、それが「襲いたいのか襲いたくないのかはっきりしろ」と言うものではなくて。どちらかと言えば「何を考えてるのか吐露しろ」と言いたいような、それでいて「お前の計画書を見せてみろ」とか、そう言う言語に置き換えたいらしいと言うのを思い知る。
「廉、これはグローブと言うものだ」
 暗に「やり直せ」と言う意味合いを持って、ぐるぐる巻きにされた手を差し出してみる。
「いや、これはグローブに見えてミトンだから。ほら、グローブって五本指がちゃんとあるでしょ? だから、これはグローブに見えるけどミトンなわけ。
 あと、外すのは駄目。香流はこれくらいしておかないと、何が何でも自力で何とかしようとするから」
「……では」
「駄目、僕がやったんだから。香流には外す権利ないよ」
 廊下での怒りは収まったらしいが、ここで下手に刺激をすればまた怒らせるだけだと言うのが言葉の外側からひしひしと伝わってくる。
「これだから、事情通のフリをした奴は……」
「事情通ですから」
 素知らぬ顔をしながら、廉が使った物を端から片付けている。
 廉も香流も特にこれと言って部活などに勤しんだ事はない割には、色々と状況的に保健室でお世話になる事はある。だから、廉はある程度の保健室で器具の配置などは記憶に深いのだ……本人に言わせると「どこでも大体一緒」と言う事になるのだが。
「廉、それは『二度ネタ』だ」
「香流もな」
 本当に怒るべきは、どこなんだろう?
 何やら、どこでも怒るべき要素がありそうな気がするのだが。それが何なのか判らない為に怒る事が出来ないような、それでいて後で女の子達にその話がバレた時に「どうしてそこで怒らないの、心広すぎるよ!」とか言われまくる現実には未だに対処が出来なくて頭を抱えたい衝動に駆られる事もしばしばだ。
「これでは手が蒸れてたまらないのだが……」
「香流は冷え性だから、これくらいでちょうど良いよ」
 片方の手だけならともかく、両手がぐるぐる巻きでは日常生活に思い切り支障が出て困るなあとか思っていたら。
「うわ、なんかすごい状況?」
「いきなり開けるのは無礼だぞ、旗志君」
 ひどいなあ、呼ばれたから急いで来たのになあ。などといいながら、平然と椅子を寄せてきて座る姿は。はっきり言って……最初に見た頃よりははるかに仮面がはがれたと言うか地が出てきたというか、年相応と言う言い方はまだマシなのだろうか?
「なんだ、その顔は?」
 ベッドの上と言うか端っこにちょこんと座った状態な香流は、座って落ち着いた旗志が口元を押さえつけて「うわあ」とか赤い顔をしている状態に疑問を持つのは当然だった。