その10・静止と運動の螺旋


「廉……」
 珍しいものもあるものだと、香流が目を丸くして驚いている。
 午前も早い、明けきらぬ時間。いつもより早いくらいだと言うのに、こっそり羽香の家を抜け出して自宅の道場へと戻ってみれば常ならば香流が行っている筈の掃除を廉が行っていた。
「あ……おかえり、怒った?」
 ばつの悪そうな顔をするのは、何に対してなのだろうか?
 徹夜明けの頭では、何を考えてもまともに考えが出来るとは流石の香流も思わない。
「寝不足か? 医者の息子が不養生とは情けないな」
 その言い方が、果たして「女の子」として正しい言い方なのかどうかと言う疑問を感じないでもなかったのだが……香流は、正しい判断を下せるとは思えなかったので疑問を頭の中から削除した。
「いやあ……香流は?」
「私は……」
 正確には、一睡も出来なかった。
 しなかったのではない、とは思う。3時頃には流石に騒いだ事もあって睡魔に襲われて、早々に羽香はうつらうつらとしていたので寝室のベッドに納めるのが大変だった。家主が眠ってしまってはいつまでも起きているわけにも行かず、かと言って客用布団がどこにあるのかもわからず。羽香の隣で横にはなって見たものの目を瞑っても意識ははっきりとしてしまい、結局時間になったので起き上がって帰ってきてしまったのだ。
「私は、アレに謝らなくてはならない」
「疑問系じゃないところが、やっぱり変わらないよね」
 苦笑する廉の姿は、幼い頃から何度も見ている。
 そんな時だけは、なんだか仮面っぽい笑顔ではないと思っていた。
「けど、どうなんだろうね? 元々、あっちが女になりたい。男になりたいって意識があったから入れ替わったんでしょ?」
「一概にそうとも言い切れないと、義人小父上は言っていた。最近はともかく、最初の入れ替わりは私も望んだ部分があったのではないかと」
「親父の言う事って、かなり適当だと思うけど?」
 頭をかりかりとかく姿は、長身の廉がやっても可愛らしさを持っている。
 こう言うのは、体の大きさとか仕草とかではなくて全身からかもし出される雰囲気がそう言うものを作るのだろう。などと、香流は冷静に判断している様な気になっていたが。実際には、かなり脳みそが停止状態になっていることに気が付いていなかった。
「そう言うな、義人小父上は一応でも社会的権威の持ち主だ。そのご意見を無下にするのは良くない事であろう」
「一応とか言われるし……まあ、国内でよく思われてなくても海外で有名ってあるよね。どっかの博士とかアニメ業界とか、その手の分野の人とか」
 どんな分野かはさて置いて、世界的評価と国内評価の違いと言うのはどこの国にだって存在するのは確かだ。
「でも、俺にとっては単なる宿六親父にしか見えないけどね」
 寝不足と言うより、完全に寝ていない状態になると人は己の制御を忘れるものらしい。
「廉……お前、帰って少し眠ったらどうだ」
 第一人称が「僕」から「俺」になっているのもそうだが、父親の事を元々そんなによく思って居なかったにしても「宿六」と言うのは少々言いすぎな気がしたからと言うのもある……それに、あと何かが違う気がするのだ。
 ただ、それが何かは判らないのだが。
「何? 俺が側に居たら邪魔?」
 鋭利。
 意識から作られる空気が、いつもの何か一枚カバーされてるのとは違って刃物の様な感覚をもたらされる気がぴりぴりと伝わっている。
「邪魔であると判断したのならば、最初からそう言っている」
 普段やる掃除をされてしまったので、とりあえず香流は柔軟体操をする。
 最初のうちは本当に怠けられていた肉体がえげつないほどの悲鳴を上げていたし、直ぐに体力がなくなるので何度も女の体を嘆いたり腹を立てたりとかしたものだが。
「ふうん……じゃあ、今日は俺に付き合ってくれる?」
 人には、なんだかんだ言って「慣れ」と言うものがあって。
 以前ほどではないと思うけれど、流石に大分この状況にも慣れてきた気がしていた。
 それは、気のせいと呼ばれるものかも知れないが。
「ほう……では、私にも付き合ってもらおうか?」
 香流は気が付いてなかったのだが、鋭利な空気を作り出しているのは廉だけではなかった。廉の鋭利な気を作り出す要因となった一つは、香流自身の鋭利な空気がより研ぎ澄ました結果に過ぎなかった。
 廉が、それに気づいているのかいないのかは判らないけれど。
「何に付き合って、もらいたいわけ?」
「そんなのは決まっているだろう……実戦だ」
 すっと突き出されたのは、いつもの竹刀ではなく木刀だ。
 比良としては慣れ親しんだ木刀ではあったが、香流としてはまだ多くの回数を扱ったわけではない。手にかかる負担が大きくて、疲労もそうだが数回行ったときにはいずれも手の皮がずりむけたり血豆が出来たりして少しばかり騒ぎになった事がある。
「香流……木刀は!」
「真剣でないだけ、まだ手加減の余地はあると思う」
 実際には、香流は苦痛の声もあげない。うめく声すらあげない、けれど代わりとばかりに廉が慌てて向坂医院に運び込んで紅葉夫人にこっぴどく二人揃って怒られた経緯が数度ばかりある。
「本気……なのか?」
「ああ、これは私にとって必要な事だ」
 いつもの胴着を着て、いつもの髪をして、違うところがあるとすればお互い顔色が多少良くないと言う程度に過ぎないのに。
 何故、こんな事になったのだろう?
 正直な所を言えば、そんな事は二人のうちどちらにだって出ない答えだ。
「それは、比良に謝る為か? だったら……」
「それもある、だが。それだけではない事は確かだ。
 私は、あまりにも自分自身とか一つのことばかりに目を向けすぎていた。もっと周囲に目を配る余裕を身に着けなくてはならない、その為には私自身を徹底的に痛めつけて完膚なきまでに叩きのめしてもらわなくてはならないと結論付けた」
「極論だ」
 間違っているとは言わない、それは一つの方法である事は確かだ。ある意味に置いての香流の成長を喜ばしいとは思う……けれど、あまりにも厳しい方法である事も確かだ。
「拒否するか?」
「判ってるのか? 今日だってこれから学校だ、朝からそんな事したら……」
「学校にはきちんと登校する、授業だって出席する。体育があろうと見学だの休んだりはしないし、それに……」
「やっぱり駄目、却下」
 ため息をつきながら、廉は被りを振った。
 確かに、一度言い出したら聞かない性格なのだから安易にOKを出して適当にあしらって置けば問題はそれで解決する様に見えるだろう。だが、適当にあしらった事が判れば香流は廉が本気になるまでくってっかかって来るに違いないと長い付き合いでひしひしと理解してしまった。
「私は、言った事はやり遂げるぞ」
「判ってる、だから駄目」
 学校には行くだろう、授業にも出るだろう、しかし体育は参加出来るわけがない。本気で掛かって来いと言っているのに、恐らく体育に参加出来るほどの体力を残してやれば「本気でやらなかった」と突っかかれるだろうし、逆に起き上がれないほどやってしまえば意地でも我を通そうとする香流が何をするか判ったものではない。
「廉!」
「やってもやらなくても、今は駄目。まだ駄目」
 何より……また、香流の体に傷を増やして周囲に何を言われるか判らないと言うのも。頭痛の種である事には、間違いがない。
「ならば、何時ならば首を縦に振る」
 廉は、勘違いをした。
 やっと香流が納得をしてくれたと思ってほっとしたのは、まだまだ甘いのだと。
 幾ら長い付き合いでも、こうして徹夜明けの回転しない脳みそで相手をするべきではなかったのだと言う事を忘れていた。
「判った。ならば、私は旗志君に頼む事にする」
「ちょ、香流……!」
 廉がやっと香流の姿を見た時、その背後に視認出来るほどの気が揺らめいているのが見えた気がした。当然と言うべきか、錯覚に過ぎないのだが。
「廉でなくとも、相手は幾らでも居る。
 旗志君で駄目ならば剣道部へ、剣道部で駄目ならば他の部へ、それでも駄目ならば町のチンピラだろうがなんだろうが相手など幾らでもいる……惜しむらくは、彼らは廉や旗志君ほど腕が立たないという所だが。それでも……」
「駄目だって!」
 ぶんっと振り回された木刀を、視認する前に条件反射で廉は避けていた。
 特に構えもしていないが、香流が手にした木刀を振り払ったのが判ったからだ。
「廉、貴様は私の相手をするつもりがないのだろう? ならば口出しをするでない」
 やばい、と言うのが廉の下した結論だ。
 香流は……相当、怒っている。
 唯一の幸運は比良の肉体でないと言う事だが、それでも大きくて小さな違いだ。
「やめろ、香流。とりあえず今日でなくても良いだろう……な?」
 最悪な事があるとすれば、今の香流には本気の廉と戦った記憶があると言う事くらい。
 加えて、廉が対処法を間違えてしまったと言う事。
「退け」
 ぴりぴりとした一触即発の空気が、余計に膨らんだ気がした。
 外見の作用と言うのは大きなもので、つい廉はかつての香流を相手にする様な態度をとってしまった。これが本当に今の比良であるとか、かつての香流相手ならば良かったのだが今の香流は子ども扱いをされてる気がする様で喜びはしない。
「香流!」
「ふん……私を止めたいのならば、止めて見るが良い」
 それは悪人の台詞っぽくないか? などと言う、普段の軽口など当然出てこない。
 両手に持った木刀のうち、一本を軽く放り投げてくるので反射的に受け取ってしまう。
 ここで落としてしまえば話は変わるのかも知れないが、だからと言って状況が改善するとは思えなかったので結果的には大差なかったと言う事になるのだろうか?
「それ以前にやめようよ!」
「断る!」
 最悪な状況と言うのは常にあるもので、この場合は結果的に勝っても負けても確実に怒られるのは廉だ。香流の軽口、我がまま、そう言ったものに付き合ってしまったのは男に受け止めるだけの度量がないからだと、道場主や実の父、義理の母、クラスメイトに幼馴染連中に始まって弟妹にまで何を言われたものか判ったものではない。
 最悪だ、あまりにも最悪すぎてどうしたら状況を改善できるかなど目が覚めた脳みそでも考える事など八方塞がり過ぎて。香流の腕が短期間で上がりすぎてしまって、そこまで考える余力がない。
「手加減無用!」
「無茶言うな!」
 普通は木刀の叩き合うカンカンと言う軽い音がするが、これは全力で打ち合っていないからである。全力で打ち合えば、木刀と言えど所詮は木の棒で数度打ち合えば最悪折れるまでは行かなくてもヒビくらい簡単に入る。ヒビの入った木刀が折れた場合、どんな軌跡を生んでどんな事故を招くか判ったものではない……ので、この道場では木刀を使う時は普通の竹刀の様にではなく槍に近い使い方をさせる事もあった。
「やめろって、香流!」
「うるさい!」
 香流が祖父に頼まなかったのは、簡単な話。
 己の迷いを払うためにつけてもらう稽古など、言語道断だと一言のもとに斬られるだろうというのが容易にわかったからだ。
「私は……私は長子だ、比良の姉なのだ!」
「判ってる、判ってるけど……!」
 香流は、ただ一生懸命なだけだ。
 だからこそ、これまで特に愚痴も零さずに根本から逆転してしまった環境に対して頑張って耐えていた。今まで出てこなかったのは、それに対して零すだけの余裕がなかったからであると言う事で、逆を言えばこの生活にもようやく慣れてきたと言う見方も出来る。
「判っていない、廉には判らない!」
 迫り来る木刀の刃、その切っ先をぎりぎりで交わす。
 余裕でもなんでもない、会話をするのだって無理をしていると言っても過言ではない。
「な……それってどういう意味だよ!」
 もっとも、廉には最初から香流の気迫に押されている所があるので勝ちにくいと言う点があるから押し戻すにはより強い気迫をもたなくてはならないと言うのがある。
 ぎりぎりで交わした切っ先を、廉の木刀が僅かな力を加えながら逸らす。その分、香流の剣は次の動作に移るときによりオーバーアクションを必要とする。
「確かに俺の体が女になったわけじゃないよ、俺が香流になったわけでも比良になったわけでもない。けどな、ずっと側に居たのに判らないってどういうことなんだよ!」
 だから、廉の動作の方が僅かに速さを増す。
 力がある分、余計に廉は有利なのだ。それでも返す刀を持って香流が廉の攻撃を受けた方向とは逆に押し出す様な形で流す……本来、相手の力を相殺の上で外部へ放出すると言う技は比良の得意技だった。
 必要なのは力ではなく、見抜く瞳だ。
「側に居ようがなんだろうが、廉は笑ってるだけではないか!」
「役立たずって言いたいのか!」
 打ち合っているわけではないのだから、カンカンと言う甲高い音はしない……どちらかといえば、何かがさーっと引きずられるような音が一瞬すると言う感じ。木の棒同士が削りあっている音とでも言うのか、それに道場で踏み込む足の音がするくらい。
「そうは言ってない!」
「言ってるだろうが!」
 廉は、気が付けば半ば本気になっていた。
 何を言えば良いのか判らない状況で、言っている本人も混乱しているのだろう環境で、廉の神経を逆なでする言動をしている少女が居て、しかも攻撃対象にされてて、そんな戦う理由なんてどこにも見つからなくて、どうしようもない。
 しかも、結果的に香流の動きは基本的にコンパクトな上に力任せではない事もあって最終的には全体の動きとしては拮抗しているのが実情だ。力任せに己の体制を整える廉と流れに乗って動く香流とでは方法が違うだけで大した差など実は、存在しない。
「てやぁぁぁぁぁぁっ!」
「はぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 基本的に、相手の力を利用すると言う法則を取っていた二人。
 その二人が、相手の出方を待たずに己から踏み出した時……その時。
「そこまで!」
 がつん、と言う音が二重になって道場に響いた。
 ただし片方は……そのまま、ばきりと音を立てて。折れた。
 もう片方は、放物線を描いてあさっての方向へと飛んで。落ちた。
「何やってんの?」
 戦う二人、少年と言うには青年に近い長身の男と。まだ幼さを残した少女に近い女。
 その間に踏み込んだ、二本の木刀で受け止めた、男。
「はぁ、はぁ、はあ……比良?」
 何とか呼吸を整えて、廉が代表者の様に言う。
「あったりまえでしょう! このご近所で一番の良い男よん、あたしってば」
 口調は軽いが、目が笑っていない……この双子、怒ると目の据わる感じがよく似てる。
「んで……あたしの大切なお姉様に、これから授業がある朝っぱらからあ……何してるってわけ?」
 比良は香流を見ない、見なくても香流が全身の力を使い果たして呼吸も整えられないし起き上がる事だって無理で無茶で無謀だと言うのが判っているから。
 つまり、放っておいても逃げられないと踏んだからだ。
「……比良には関係ない」
「あらあらあら、まあまあまあ……言っておくけど、あたしは香流の弟よ? しかも双子の。そのあたしに一体、どんな無関係があるって言うのか……教えて欲しいわね」
「そのガタイでお姉言葉はやめろって……」
 絡まれた時には有効活用できるかも知れないが、少なくとも廉はされて嬉しくない。
 もっとも、それは香流も同意権らしく普段はあまり人の事には口出ししない香流も二度ばかり口にした事はあるのだが。
「長年の習慣だもの、どうしようもないわぁ」
 これである。
 危ない道に進まない事だけを祈る事しか、今は出来ないだろう。
「とりあえず……幾らお隣の家の幼馴染だからって、あたしの大事なお姉様に手を出した報いは受けてもらうわよお……」
 中学までの久樹香流と言う人物は、適当に基礎な部分しか鍛錬はしてこなかった。
 多少は走りこみだとか幼い頃からの賜物と言う奴で少しは運動神経が良い方ではあったが、だからと言ってそれだけだ。少なくとも、比良と共に段位認定を受けるほどの腕前である廉には爪に垢ほども勝てる見込みはない……だが、その香流の中身が比良に移った後。
「止めろ」
 比良は、鍛錬をやめた。
 問題は肉体ではなく精神、香流の修行不足の精神が鍛えた比良の肉体についていけなかったからだ。故に、精神を鍛える事ではなく肉体を怠けることでバランスをとった。
 精神が香流であったとしても、肉体は条件や反射を覚えている。
 いわゆる「勝手に動く」と言う状況になる。
「でも、香流……」
「良いんだ、私が廉に強要した。故にお前がどうこうする言われはない」
「姉さん!」
「支度をする」
 思いはバラバラで、どこにも届かず。そして、繋がらない。
 まとまれば、あんなにも強いのに。