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 考える前に、体が動いていた。
 改めて優子の体を腕で囲んで見て、思わず少女の持つ特有の柔らかさに心臓が一つ高く鳴ってしまったりして。
「行けぇっ!」
 大声を張り上げたのは、単なる照れ隠しだと言う自覚はあった。けれど、それを口にするには真一は若すぎたし状況も気楽なもので済ませて貰えると言うわけでもなかったし。
 何よりも、優子は「そう言う事」を望んでいられる立場ではないだろうと言う気がした。
「お願い……」
 勘違いでも何でもなく、真一と優子を取り巻く空気が変わり。そして、見えない腕に抱かれた錯覚を起こし、真一は振り上げた自らの腕が伸びて行くのを実感した。
 決して、視覚では捕らえる事の出来ない腕は伸びて行き、最初こそ目的なく飛び出したと思った腕がどこへ向かっているのか判らなくて。今までついぞ忘れていた地球の重力が、今更になって少しばかりはしゃいだ子供達をたしなめる親みたいに引きずり込もうとする。
「くそっ!」
 しかし、現在位置は地上から遥かに高い位置にあって。そのまま惹かれ落ちれば今度こそ、間違いなく確実にミンチだ。
「もう、決めたから。だから……これで、謝るの最後にする」
「え……?」
 身長差は結構あって、優子の頭は真一の肩より少し高いくらい。だから、うつむいた優子の声は周囲の風に掻き消されたかのような、それでいて音ではない声が耳ではなく直接届いたかの様な気がして。
「ごめん、これから先に『死んだほうがマシ』って目に沢山あわせることになると思うけど。
 許して欲しいとか、そう言うの言えないくらい酷い事沢山あると思うけど、それでも」
 勘違いではないところで、声がした。
 響いて、届いた。
 声は指向性を持っている様な気がして、言葉を確かめるよりも先に釣られて見ていた。
「あれは……」
 不意に、意思を起こす前に行動が結果を呼び起こしていた。
 ついさっき、軽い金属音を立てて転がった筈の忍の持っていた剣が突き立っていたのが見える位置ではないのに見えて。
 それは、自らの存在を証明するかの様に異彩を燐光として発していた。
「大丈夫、だって……」
 求めたわけではなく、導かれた気がした。
 欲しいとは思わなかったけれど、すがりたいとは思った。けれど、ただすがるのでは駄目だと言うのが判っていた。
 桜忍は、その力を持っているから怒った。
 尾崎正和は、投げ打ったから駄目だった。
 つまりは、それだけの話だったのだ。
「だって、君はもう選んでいるから」
 肉体ではないのだから、例え肩を。腕を伸ばしても届くと言うものではないのを判ってはいるけれど、それでも伸ばしてしまおうと言うのは肉体反射に他ならない。
「君はもう、その答えを手に入れてるんだ」
 寂しそうに、少しだけ優子は笑った。
 その瞬間、決して神経まで繋がっているわけではないと言うのが判っていたけれど届いた手ごたえを感じて。
「捕まってろよっ!」
「……了解っ!」
 決して見えないロープ状の「何か」が、支点を中心に地球に引かれ落ちようとしていた二人の子供を拾い上げた。
 遊園地の船の形をした乗り物の様な浮遊感を感じてから、手にかかっていた感触が消えた事は判っていたけれど。それでも、不思議と怖さとか不思議さは感じていなかった。
 そう、それは「最初からそこにあった」のだと言う事を真一に教えていたからだ。
「優子様、お怪我は?」
「……嫌味か、それは?」
 確かに、ふわりと降り立った真一に比べて優子の方が疲労度は優子の方が大きい。夜の暗さでもはっきりと判るほどに優子の顔色は悪くなっており、そう言う意味では心配しないと言うわけにもいかないだろう。
「大丈夫……ちょっと、気持ち悪いだけ……」
「では、後ほど彼女に……」
「って、まさか……来てる、の? 言っちゃったのお……?」
 目に見えて、今までのどんな事が起きても動じなかった様に見えた優子の顔が。
「私から言わずとも、彼女達でしたらご自身で駆けつけるものと思われますが?」
 はっきり言って……泣く寸前のくしゃくしゃな顔になっていたのは、なんとなく突っ込みたい様な突っ込めない様な気が、した。
「彼らも、新たな仲間に対して検分をされたいと言うのが正直な所ではないかと……」
「もしかして、それって俺の事か?」
 他に居ない様な気はしたが、なんとなく違うものだと思われた方が色々な面から幸せなんじゃないかと言う気がした。
「当然ではありませんか、今回の事は全て所載に記し。後日、会議にかけさせていただく事になりますので、どうぞお覚悟を」
 心の底から、真一は妙な不安を覚えた。
 ちなみに、この不安は後に何度も真一は覚え、現実へと形を変えて行く事になる。
「会議って……」
「こうして、優子様の御手を煩わせた事を含めまして多々ある問題点を今後の課題として改善させるための会議。とでも申し上げておきましょう」
 それは、別名を会議とか裁判とか言う名の「つるし上げ」とか言う様な気がしたのだが、そこまで考えついてから即座に真一は思考を切り離した。
 何やら、それ以上を考えてもろくな事になりそうにならない気がしたからだ。
「優子様、身動きは取れそうですか?」
 まだ顔色はとても悪く、正直言うと今にも吐くんじゃないかと言う気がして怖い。怖いというより、近寄りたくないと言う気がする。
「う……ごめ、も……すこし……」
 コンクリートの上にぺたんと座り込んでしまった優子を支えながら、忍は背中を擦るでもなく腕に掴まらせている。それだけでも十分、賞賛に値している気がした。
「あ、そうだ。兄貴は……」
「正和氏は、運ばせました。
 世間には『転地療養』と言う事で……真実を口にされるのは構いませんが?」
 誰に、とも。秘密にしなくても良いのか? とも。真一は言わなかった。
 優子は、もしかしたらこんな会話になる事を知っているから、だからあえて気持ちの悪い状態になっているのかも知れないとか。
 いや、実際に優子は今にも吐きそうな気持ちと体を抱えていたりするのだが。
「あくろばてぃっくって……体に悪……い、ね。煙草とどっちが悪いかな……」
 そんなに気持ち悪いのなら、無理してしゃべろうとかしなければ良いのに……とは思うけれど、言わないだけで思っているだけならば誰にも咎められたりしないだろう。
「あぁ……そうだな、俺なんかは煙草のがマシな気がするけど……」
「優子様の感知出来る範囲での喫煙は、禁止行為にあたりますので気をつけてください」
「ええと……はい」
 実際にはヘビースモーカーと言うほど酷くはないと思うのだが、それでも中学生でぷかぷかふかしたり。煙草の煙でわっかを作って遊んだり出来るのだから、結構きつい台詞だ。
「ごめ……ん、臭いとか。駄目……なの」
「神河、さっき謝るのは最後だとか言ってなかったっけ?」
 余計な台詞と言うより、事実を確認したいだけではあったのだが。
「……はい、余計な事を言いました。
 モウイイマセン、スミマセン」
 我ながら心の篭っていない謝罪だとは思ったけれど、忍はじろりと睨みつけてくるだけで何も言おうとはしなかった。
 もしかしたら、内心で呆れていると言う状態だと言う可能性もある。
「それは……また、違うから。すこし」
「優子様、無理をなさってはいけません」
 何となくではあるのだが、真一はこの桜忍と言う人物がどうして優子の通う公立中学にまで表れて「私は優子様の下僕です」などと公言しているのか、少し判った気がする。
 つまり……だ、やはりこの金も権力も美貌も、ついでに頭の良さも運動神経も持ち合わせすぎたこの男は、子供なのだ。
「でも、寒い。ここ……」
 確かに、女性は体を冷やしてはいけないという話もある。どうせなら、正和を運んだ時に優子も一緒に運べれば良かっただろうに、とか思うけれど。恐らく、その時は生死の境をさまよっている真っ最中だっただろうから無理だったと言う事なのだろう。
 そう言えば、真一はともかく優子の生死が危うかったと言う立場だった割には。忍は妙に冷静に見えてしまい……。
「なあ、本当に大丈夫なのか?」
「う……たぶん……」
 涙目になって応えてはいるが、これはきっと本当は大丈夫ではないと言う事なのだろう。
 真一も人の事をとやかく言えたわけではないし知らなかったのだが、優子は保健室の常連だ。しかも頭痛薬とベッドに関しては学校内でもトップクラスの使用比率だと言っても過言ではなく、今夜の様な事が日常的にあるが故の背景だとしたら意外ではない事実、なのかも知れない。