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 それって、好きなんですか? それとも嫌いだって言う事なんですか?
 最初に浮かんだ疑問は、それだった。
「貴方も……上手く思い知ると良いですね、もっとも私は……貴方達の存在など不要だと今でも思っていますが。
 そう言う点に置いては、私と優子様の意見は一致をしていると思いますよ」
 内心を吐露されていると言う事から、なんとなくでもなんでもなく「うそ臭い」と言っても構わないだろう笑みを浮かべられて。
 けれど、思ったのは「『達』って事は、俺とか兄貴以外にもまだいるんですか?」と言う事で。そう言えば、何かあったら電話してみろと渡された電話の先には女の子の声がして、どうやらその人物の事をさしているのではないだろうか? などと言う事を遅ればせながら思いつつ。
 そう言えば、まだ目が覚めてから二日目なんだよなあ。とか、思ってしまう。
「忍の馬鹿ぁっ!」
 肉体の限界を超えている筈なのだから、本来ならばもっと早く倒れていておかしくなかったのだと言う事を、思い出す。
 つまり、どうやらアドレナリンが妙に増殖の一歩を辿ったり妙に神経が痛みを脳に伝える努力を放棄したりして忘れていたとか。それでも平然と向かってくる常軌を逸した人たちを相手にするのにこちらも常識にとらわれていたら間違いなく死ぬかも知れないとか。
 そう言うのが、実際にあったからなのだが。
「優子様っ……!」
 本当に、今日は意外性なことばかり起こる日だと思ったのは。真一と忍が計算されたわけでもなく計算されてしまった動きをしつつ、お互いでお互いの動きを予測したり反射的に動いたりして狭くもない空間を堕ちない様に動き回っていた筈なのだが。
 どうやら、周囲の状況と言うものを全く持って忘れたに近い状態に持って行ってしまっていたらしい。
「ふぁ……」
「神河っ?」
 タイミングを見計らっていたのか、忍の手に飛び掛ってきた優子を無下に扱えないと言う事なのか忍は戸惑いながら引き剥がそうとし、とうの優子は咄嗟にバランスを崩して微妙に風に乗ってしまったらしい。
 これまた咄嗟に優子の手を取って引き寄せ、先程と同じように硬いコンクリートの上を転げ回ると言う所までは変わらなかった。
 しかし。
「優子様ぁっ!」
 一つだけ、先程と違った事がある。
 正確に言えば、二つになるのだろうか?
 一つは、正和の姿が遠方のコンクリートの上で静かに寝かされていると言う事で。もう一つは、自分達が飛ばされた位置がさっきとは違ってビルのかなり端のほうだったと言う事であり……つまり。
「おち……る……?」
 感情を伴わない声になったのは、奈落の底を見てしまったからだ。
 いかにビルの吹き上げる風があるとは言っても、数秒の後には二人とも地面に叩きつけられてミンチになっているだろう。見るも無残な姿で、もしかしたら社会面の三面くらいは飾れるかも知れない。少なくとも、文化欄には決して乗らないのだけが救いだ。
「「いいの?」」
 声は、重なって聞こえた気がした。
 スローモーションに感じるのは体感速度だけで、実際には周囲とは時間的なずれは全く生じていない筈だから錯覚だ。
「「これで、いいの?」」
 だから、声が重なって聞こえたのも脳みそが勝手な処理をしているだけであって実際に起きている出来事ではない……筈だ。
「そんな事……悪ぃ、巻き込んで」
 実際に巻き込まれたは真一の様な気がひしひしとするのだが、それでも守りきれなかったのは真一だし。何より、優子は助けようとした結果でこうなってしまったのだ。
「「良いの? 相続しなくて、お兄さんが無駄になっても」」
 少し、考えて。
 首を横に、振る。
「兄貴……俺の事、許さないよな……」
 そっと、優子を握っていたのと反対の手が真一の腕に。
「「大丈夫だよ、きっと許してくれるよ。
 もし、お兄さんが許してくれなかったら」」
 触れる。
「「僕が、許すよ」」
 微笑みを持って、優子が言う。
「「だから、思って。願って。
 今、求めるべきものを心に浮かべて?」」
 一瞬、思う。
 ああ……泣きたくなる時って言うのは、こんな時なんだろうか? こんな事になってしまったのに、どうしてそんな台詞が口をついて出るのだろう?
 もう、間に合わないというのに……。
「「大丈夫、君が信じなくても」」
 引かれ落ちる、地球と言う重力。自分達と言う引力が、牽引しあっているのを感じて。「「僕は、君を信じて。許すよ」」
 一つ、桜忍が言っていた事を理解してしまった気が、した。
 世界を狂わせたとか人生を狂わせたとか、そう言うのは良くわからない。これまでと比べて、これからがどれだけ変化したかなどゆっくり考えなくては判らない事なのだ。
 けれど、殺したいほど愛しくて。そして憎しみを感じると言う言葉は、理解できた。
 心理学の世界でならば、それは極限状態における男女間の恋愛模様に当てはめられる事として片付けられるかも知れないけれど。残念なのか幸いなのか、真一は知らない。
 だから、くびり殺してしまいたいと言う気持ちと縛り付けて閉じ込めたいと言う気持ちが同じくらいの強さで同居しながら沸き起こった気持ちにどんな名前を付けたら良いのかが判らない。
「「世界の全てを嫌いでも、大丈夫」」
 感触が、強くなる。
「「だって、必ず君の側に居るから。世界のどんなものが君の敵になる事があっても、それだけは君と共にあるから。
 だから、君はそれを手に入れていいんだ。君達兄弟は、最初から側にいたんだ」」
 湧き上がる想いが、こみ上げる熱が。
「「だから、言って」」
 強く、なるのを感じる。
「一つ教えてくれよ」
 柔らかな微笑みで、繋がれた手を解く事なく叫び声の一つもあげずに言う。
「お前は、一体なんなんだ?」
 真一の質問に、記憶と違う笑い方をする少女は。更なる笑みを浮かべて、頷く。
「「僕は、僕だよ」」
 何がそんなに嬉しいのかと聴きたくなるほど、この危機的状況に明らかにうそ臭いと言いたくなるほどの心底安心しきった笑みを浮かべるのが一般的公立中学に通う女子生徒だなんて事、あるはずがない。
「「だから、君は君なんだよ」」
 視界は、いつか理科の本で見た天体の図みたいなものに覆われていた。それ以外は、制服を着込んだ優子だけだった。
「「お兄さんはお兄さんでしかなかった、だけどお兄さんは。もっと沢山のものを望んでいたから、だからパンクしちゃったんだ」」
「ああ……そうなんだ」
 判る、気がした。
 正和が望んでいたのは、自分自身だけが手に入れられるものであって。それ以上でもそれ以外でもなくて、そして正和が知っていた事は何もかもを破壊する事だけだった。
 けれど、それは当然の事なのだ。
 この世にある誰も、正和に破壊以外の何かを教える事など、出来なかったのだから。
「「お兄さんはね、尾崎君」」
「……ああ」
「「ちゃんと、『お兄ちゃん』だったんだよ。それだけは、本当の事だったの」」
 お兄さんをお兄ちゃんにする事が出来たのは、尾崎君が居たからなんだよ。
 不思議と、慰めの言葉だとは思わなかった。
 本当に、真実を語っているのだろうと言う気はしたけれど。
 その兄には、もう二度と会うことはない。
 求めた事と必要な事が、噛みあわなかったが故の罪で。それを実行してしまったが為の罰で、実行者が永遠の眠りについてしまったからこそ受け継がれた「相続」と言う形で。「そ……か」
 義務であり、責任であり、権利なのだ。
 もしも真一が望まなければ、それは相続される事はないのかも知れないけど。
 だけど、本当に真一が相続をしなかったら。
 そうしたら、一つだけどうしようもない現実だけが取り残されてしまう。
 正和のした行為の全てが、無駄になるという事。それだけではないと言うのがまた腹立たしい事に、そんな風に真一が思うのを本人以外はほとんどの人たちが知っていると言うことで。ほとんど仕組まれたヤラセの様なものなのだ、忍は本気だったらしいが。
「なあ……俺は、兄貴を受け継ぐ事が……」
 そっと、腕に触れていた手が手に移動する。
「君は、いつだって君だよ?
 僕が、いつだって僕であるようにね」
 やっぱり、まずいと真一は思った。
 本人には言えないが、これでは惚れてしまいそうになるではないか?
「さあ、何を望む?」
 その声は、優子のものに聞こえた。