20


 ちらりと、優子が忍に視線を向ける。
 それだけで、忍は優子の言いたい事が判ったのだろう。おとなしく、一歩を下がる。
「尾崎君、お兄さんの願いは君が相続した」
 淡々と語る優子は、特に何でもない事を口にしている様だったし。実際に字面だけを見たら大した事ではないのだろうと言う気がしてならない。
 もちろん、それは錯覚だけど。
「は……?」
「つまり、不本意ながら尾崎真一君。
 貴方が尾崎正和氏の身代わりを勤めると、そう言う事ですね……」
「身代わりって……」
 いきなりの事に、真一は回復するのに時間がかかってしまったのが不覚だと思う。
「そうしなければ、お兄さんはいずれ……肉体的な永遠の眠りを迎えてしまう事になる。
 今、お兄さんは永遠に目覚める事はないだろうけど。それでも、まだ生きている。
 その肉体を維持させる為には、尾崎君がお兄さんの願いを相続するしかないんだ」
「ちょ……ちょっと待てよ、それって一体どう言うこと……」
 思わず後ずさりしたのは、恐らく本能のなせる技なのだろうと言う気は、した。
 だが、どうやらそれには少々遅すぎた様だと言うことに気づいたのは投げ飛ばされてからだった。
「尾崎君っ!」
 優子が、驚いた顔をしたままでこちらを見ているのが判った。一体どういう仕掛けなのか、一定の距離を彼らから離れたら忘れていたビル風が簡単に真一を嬲るのを感じた。
 優子が性格的にこちらへ走り出してこなかったのは、膝の上に正和を乗せているのと。足が遅いからなのと、ついでに忍が優子の目で片手を広げて通せんぼ状態だからだ。
「忍、何を……!」
「なりません、優子様。危険です」
 危険なのはお前だって、と言う言葉は深夜に入る時間帯に入ったのか。より強くなった風によってこちらの声が届かないのを知っていたからだ。けれど、不思議とあちら側の声は問題なく届いている。
「彼は支払うべき罪と罰を背負いました、故に私は彼の相続するべき願いを叶える為に。
 あえて、眼前に立ちます」
「ちょ、そんな事……しろなんて、言ってない。誰も言ってないよ!」
 優子は、焦っている。
 この、今訪れた事態をどう回避しようかと頭の中は全速で回転している事だろう。しかも、優子の意見は同時に真一が考えた事でもある。誰も、忍に何かをどうしろなどと言った記憶はどこにもない。
「ですが、成すべき者はすでに時間制限を越えてしまった為に身動き一つ取る事は出来かねます。ならば、他の者がそれを成すべきではないでしょうか?」
 平然とした顔をして、手は何も持っていないから先程よりまマシな状態と言えなくもないのだろう。そう言えば、さっき忍が落とした剣はどこに行ったのだろう?
「でも、それは……今すぐしなくても……」
 忍の言っている事も、あながち間違いでもはずれでもないと言う事なのだろう。
 何をして、させようとしているのかなど想像もつかないけれど。
「僭越ながらお尋ねしますが、優子様はいかにお考えなのか聞かせていただけますでしょうか?」
「それは……!」
 惑いはプランがない事を教えているが、こんな風に悠長に忍が優子と語り合っているのは真一を馬鹿にしているからだ。馬鹿にするとはイントネーションが違うかも知れないけれど、実際にやっているのは同じ事だ。
「優子様、これは調度良い機会なのだと。その様にお考えいただけば恐縮です」
 違う、と本能にも似た直感が告げる。
 桜忍と言う人物は、先程まで交わされた会話が正しければ。単に背負いたいだけの話であって、それが正和とのものではなく。あくまでも優子との「罪と罰」なのだ。
 恋愛感情の一つとして、衝動として、今の忍はとてつもない危険なことをしようとしている。恐らく、真一がこのまま呆然として床に這いつくばって居れば情け容赦なく殺されるだろうと言うのが容易に予測出来た。
「だって、まだ何も……言ってないじゃないか。説明だってしてないし、それにお兄さんを……」
 焦ってはいても、正論だけは忘れないのが神河優子らしい特徴だと思った。
 そうだ、何故に彼女がクラスで苛めの対象となったのかと言えば。あまりにも彼女が「正しすぎた」からなのだと知る。
 ある程度の「余白」と言うものを世間では欲する。人は、良いものと悪いもののどちらかを決められないグレーゾーンを求めて、その中でまどろむ事を求める。
 けれど、優子は白は白であり黒は黒なのだと言う。おかしな事に、優子はそれでも白は黒にもひっくり返す事が出来るし。黒を白だと突き通す事が出来る、それは年端も行かない子供の中では「異質」だと分類される。
 百戦錬磨の大人たちならば、まだ話は別だろう。そう言う意味では、あまりにも彼女は大人社会で通用する処世術を身に着けすぎていた、それもまた子供達の中では「異質」であり受け入れがたいものなのだと判断される。
 だから、拒絶されるのだ。
 神河優子の持つ特殊能力とも呼べる技術、それを必要とする高度な能力を持つ人々。その筆頭であり、周囲が誤解している事を知った上で、あえてその誤解を解こうとは思わない忍の存在が周囲に防壁を作るのだ。
「子供かよ、お前は……!」
 考えると馬鹿馬鹿しい気がして、唐突に幾つかのパズルが組みあがったのを知る。
 忍も、どうやら正和と同じで真一に嫉妬していると言う事らしい。嫉妬されるほど親しくした事などついぞ思い当たらないが、それでも現実に目の前で起きている事は確かなのだ。嬉しくない事に、だからこそ最初から忍は真一に対して酷薄な笑みを浮かべていた。
 今まで気がつかなかったのは、真一には優子や忍への興味など全く無くて比較する事が出来なかったからだし、判断材料がこれっぽっちも無かったからだ。
 けれど、今ならば少しは想像出来る。
「神河の言うとおりじゃないか……」
 立ち上がる、横殴りの風が湿り気を帯びているのを肌で感じる。
「ほう」
 笑みは、先程までの正和と酷似している気がして。自分で発した言葉が奇妙なほど正しいのだと言う確信めいた気が、した。
「優子様が、何を?」
 どれだけの風が吹いているのかは知らないが、足取りはしっかりとしている。真一も、さっきまでと違って重心を落とす事によって安定性が高くなったのを自覚した。
「お前らは、信用できないってよ!」
 にこやかな笑みを称えている姿は、知らない所で知らない誰かを相手にするならば幾らでも垂れ流して欲しいと言う気がする。
 だが、今は駄目だ。自分自身に向けられるそれはどちらかと言えば、なんだか「浮気された女の相手」を目にするソレに近い。
 そう言えば、過去にそう言ういざこざの現場に居合わせたことがあった気がした。
「戯言を!」
 戯言、と言われればそれまでだろう。実際、優子はそんな言い方はしていなかったのも事実だ。けれど、それに近い言い方は確かにしていたのだと言う事を、果たして知っているのだろうかと言う疑問が沸き起こる。
「嘘でもないが、本当でもないぜ?」
「そうですか……それで?」
 余裕の笑みと言うより、人は本当に怒りを覚えると笑みを浮かべると言う言葉を思い出したのが疑問だった。
 つまり、忍は心の底から現在。真一に対して怒りを覚えていると言う結論に達する事になるのだが、恐怖心からなのかそこまで考えが至る事はない。
「それでって、なんだよ……」
 距離を測って、風の速度と相手の運動神経を考慮して、じりじりと位地を計って見るけれど忍は相変わらず余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべていて、実際に真一は距離こそ測ってはみたけれど具体的な方策など何一つ考え付いていないのも本当で。
「だから、なんだと言うのかと問いかけているのですが……何が言いたいのかと」
 ああ、そうですか!
 言いたいのを、ぐっと堪えて見た。
 堪えたからといって何かがあるわけでもないが、言った事でやはり何かがあるわけでもないと言う悲しい事実がある。
「そんなんでいいのかよ……」
「何がですか?」
 強者の余裕って奴ですか?
 そう言いたくなるほど差し迫っている状況だと言うのは判ったが、具体的に何をどうすれば良いのかと言う点については具体的なプランがまったく思いつかないのが痛い所だ。「桜は、神河が嫌いに見えるぜ?」
 言われて、思わぬ反応が真一に返る。
「ああ……そうかも知れませんね。好意と憎悪と言う立場で言うのならば、私達は共にあの方に対して同じだけの感情を抱くでしょう。
 感謝と、同じだけの憎しみを注ぐ事になると思いますよ、何しろ……私達の世界も人生も全てを変質させられたわけですからね」
「……へ?」