18


「尾崎君……?」
 ぼんやりとした声が後ろから聞こえた気がしたけれど、それは無視した。本当にそうだったかも知れないし、違ったかも知れないけれど、それでも無視する事に決めた。
「笑わせてくれますね」
 向かい風に逆らって走ると、混乱を極めた正和の銃口がふらふらと揺れて。冷静と言うよりも冷酷な、感情の伴わない瞳でこちらを一緒くたに見つめる忍がいて。
 馬鹿にされた、気分だった。
 全てを知った上で奇行に走った兄と、何も知らずに愚行に走る弟だと言われてる目の様な気がしたのは、思い込みではなくて事実だからなのだろう。
 忍の手にした剣は、遠くからでもはっきりと存在感を現していたのを不思議と思わず。近くで見たら、それは淡い燐光を全身から発している様にも見えた。細かい細工が幾つも施され、西洋の剣と東洋の刀の良い所を両方併せ持っている様にも見えたし、逆にどちらかの癖を身につけた人には使いにくいのだろうとぼんやりと思った。
「うるせぇよっ! 兄弟喧嘩に他人がいちいち口出しなんかすんな!」
 武器を持たぬ手で、剣と拳銃を相手に何をしようとしているのかなんて誰よりも真一自身が知らないと思う。
 けれど、ただイヤだった。
 誰も何も説明の一つもしてくれない、面白がって教えないだろうと言う忍も。ただ謝って泣きそうな顔をしている優子も、殺そうとする兄の事も、それこそ「どいつもこいつも」
と言いたくなるのはこちらだ。
 せめて、何か一つくらい教えてくれても良いと思うのは身勝手なのだろうか?
 少しは説明してくれた様な気はしたけれど、それは理解出来る言葉ではなかった。だから、あれはカウントしなくても良いと思う。
 それこそが身勝手かも知れないが、人をこんな風にわけのわからない事に巻き込んで。それで平然と「理解出来ないお前が悪い」みたいな空気の中に放り込まれているのはいい加減に我慢しろと言うのが無理な話だ。
 誰も、そんな事は言っていなかったけど。
「笑わせてくれると、言ったはずです」
 余裕の笑みを持っているのは、恐らく手にした剣のリーチの長さ分だろうと思う。加えて、こちらは正常な判断など最初から下せそうに無いと思われる幼児退行した兄をかばいながら。ついでに乱射される銃口から逃げながら素手で戦わなくてはならないのだから冗談にしても程がある。
「けど、ヤなんだよ!」
 絶対的な不利な状況で、周囲は敵ばかり……優子は決して敵とは言い切れないし、一対一でならば簡単にねじ伏せられる気はするけれど。どちらかと言えば物の数ではないと言うのが正しい気がする。
 そして、奇妙な感じがしている気がした。
 何が、とはっきり言えないのだが、言って見れば「使い手と剣の表情が違う」とでも言うのだろうか? 忍は浮かべている笑みとは違う所で苛立っている気がする。すぐに歴史のありそうな剣でなぎ払ってしまえば愚かな兄弟ともども倒す事も出来るだろうし。その剣を突き立ててしまえば息の根くらい簡単に止まるだろう。
 もっとも、中学三年生の少年Aで済む様な子供が簡単に長剣を振り回して刺殺なんて事は難しいとは思うが。ナイフ一本ですら人を殺せるのだから、そう出来ない事ではない。
 そこまでぼんやりと考えている自分自身を発見して「意外に冷静?」とか頭の中でなおも呟いているのが不思議だった。
 肉体は、限界を超えてぎしぎしといっている気がしたし。涙が流れて乾燥した頬や目じりはひりひりと痛いし、こんな高さのあるビルの屋上みたいな所で、地上で喧嘩とかじゃれあいとか見たいなハードな動きをしているのが普通の神経で出来る事だとは思えない。
 命がかかってるとか、味方がいないとか、夢だったらつまらないとか、そう言う事が沢山たくさん頭の中を走って。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 ぱん

 乾いた音がして、体の中を何かが走りぬけた気がしたのを感じたのは。勢いで目の前の剣に不意に突撃をかましてからで、前と後ろから貫かれた衝撃を感じて、もう生きてる間にこれ以上は動けないだろうと言うくらい疲れ切っている自分自身を発見して。
 とりあえず、この場面を脚色して普通の女の子の集団あたりに見られたら俺が桜を押し倒してる様に見えるんだろうなあ。
 などと、くだらない事を考えてしまった所で。致命傷の一つである後ろからの衝撃を生み出したのが、同じ血を分けた兄の仕業である事を、知った。
「なっ……!」
 感覚的には冥土の土産と言う気分だったけれど、半分は無意識だったから通用したのか。それとも、もう一つの致命傷的な衝撃があったせいかはわからないけれど。外側から繰り出した蹴りを忍はまともに受けて、なだれ込むようにバランスを崩して真一と忍はまともにコンクリートの地面に叩きつけられる。
「失態、だね」
 体の奥からこみ上げる、熱。
 外から内から発する、それは痛み。
「申し訳ございません」
 何事も無かったかの様に起き上がり、まるで中世の騎士がするかの様に頭を下げる男。
 何とか、堪えて首を捻じ曲げる。捻じ曲げようと努力をしてみると、意外にも成功した様だと思った。
 青白い顔をしている、暗闇と薄い光のせいなのだろうか? 頬は東北の人か病気ではないかと思うほど赤いことも多いと言う話を、以前どこかで聞いたことがある様な気がした。
「忍」
 言葉は一つだけで、他には何もない。
 まるで、プログラムされた機械が与えられたきっかけに対して自動制御されて動いている様な錯覚を起こす。
「はい」
 答える声も一つで、それだけだった。他に語るべき声は持ち合わせていないかの様でいて、僅かに剣が音を発しているのが判った。
 金属らしい音は、一気に真一を現実世界へと引きずり戻す。別に、死にたいとか殺して欲しいとか思っては居なかったけれど可能性を全く考えていなかったのは確かだ。
「まだっ?」
 転がった体は突然で、自分でも良く出来たものだと感心する。肉体に刻まれた学習能力は、脳みそが判断するよりも先に真一の肉体的生命を救ったようだ。
「あざとい事をなさいますね」
 地面を、剣が深く抉った。一体どれだけの力と鋭さが込められているのか、溶けたバターに突き刺さるナイフとどう違うのか問われれば判らないだろう。
「その傷で、まだ逃げられると?」
「なんだか、ずいぶんとおしゃべりじゃねえかよ……桜さんちの忍さんよぉ……」
 痛みは、ある。恐らく、腹部や背中には見えないけれど血がだらだらと流れて生命力と共に失せて行くのだろう。知識としては知っているけれど、それを実感したのは人生でそう何度もない。
 ああ、一度ある。
「もう良い」
 同じ声が、同じ口調で違う言葉を紡ぐ。
「優子様……」
「退け、忍」
 そうだ、と思う。この声が、あの時に聞こえて意識を失ってゆく真一の脳裏に深く刻まれたのだ。
「ですが優子様……!」
「終わったのだ、全ては遅かった」
 見れば、優子が居た。
 説明される事なく、見ただけで大体の事情と言うものは判る時はわかるものだ。
「……兄貴」
 優子は、座り込んでいた。
 ビルの屋上見たいな所で公立中学校の制服で、幼い表情を残したままの女子中学生が。その膝の上に呆然自失と言うよりは眠り込んでいる成人男性を乗せている姿は、昼間で公園とかの健康的な場所で見るならば微笑ましいものだったのかも知れない。
 静かに額を、髪を撫でる姿を見て。
 愕然と、する。
「もう、遅いのだ」
 忍の手から落ちた剣は、思いのほか軽い音をたてて転がった。茫然自失とか、愕然としていると言う言葉は、もしかしたら正和よりも真一よりも忍にこそ相応しいのだろう。
「兄貴……?」
 足が、崩れ落ちる感覚に任せて重力に逆らわず座り込む。実の兄であったのは生まれてから今までずっとそうだったにも関わらず、命を狙われたのは覚えてる限りで長い時間ではない。少なくとも好かれていたとは思わないが、嫌われるほどだとは思っていなかったし命を狙われる程だとは露ほども思っていなかった。
「遅かったのだよ、最早」
 過去形で言われた言葉に、ぎくりとする。
 つい今しがた、自分だって過去形で思っていたと言う事実を始めて自覚したからだ。
「兄貴に……兄貴に、何をしたっ!」
「優子様へ危害を加える事は許しません」
 掴みかかろうとした真一の襟首を、忍が訪印に押さえつける。思いのほかつんのめってしまった真一は、予想しなかった衝撃に首が絞まるのを感じて咳き込んだ。
「忍……良いから、放してあげて」
 哀れみのこもった眼差しと声を向けられて、真一は何度も味わった屈辱的な思いを思い出してしまう。これ以上はもうないだろうと言う感情を抱きながら、それでも味わう感情は開いた傷口にも似ている。
「お兄さんは、眠ってるだけだよ。命に別状はないけど……とても、長い旅に出たんだ」
 優しく撫でる手の下で、あの狂気に支配された表情は無く。母親に優しくされる、幼子の様な穏やかな顔があって、確かに呼吸はしているし薬などを盛られた形跡は無さそうな気がして。
「お兄さんは、もうどうにもならない。だから、その点については心配しなくても良い。
 でも……間に合わなかったから、君は罰を受けなくてはならない。お兄さんの代わりに」