17


「兄貴っ!」
 状態はぐらぐらで、お世辞にも万全とは言えない。頭の中はもう何から口にすれば良いのか全く持って判らないし、それにどうしたら良いのかとか誰が味方で誰が敵なのかとか、学校で良くも悪くも有名人な奴が二人と実の兄とに何の関係があるのかとか、そう言う事も全て含めて。
「兄貴、逃げろ!」
「尾崎君……ごめん」
 反射なのか、それとも他に理由があるのかは判らない。だが、忍はどうやって手に入れたのか先程まで手にしていなかった筈の剣の様なものを手にしているし、それを分離させて抜き取り振り上げている。
 ビル風は忍にとって向かい風にあたる筈なのだが、それを忘れさせる俊敏性と運動神経でカヴァーしているのか動作速度は通常の人のそれと変わることはない。これがもしも数時間前までの忍だったとすれば、一瞬で終わっていただろうという気がする。
 反射的でもなんでも、風上と言う有利性を生かしたのか正和はおびえる子供の形相そのままで忍の攻撃から逃げ惑い。そして手にした拳銃を震える手でランダムに撃っている姿を見て、真一は戸惑う。
「ごめんって、あれってなんなんだよ!」
 叫び、怒鳴るのはいい加減にどうにもならない恐怖心から逃れる為。
「僕が許した、僕が僕の責任の下で桜忍と言う一人の人物に。人一人を殺せるだけの力を与えて、そして僕の代わりに忍に人を殺すように命じた……それだけだ」
 振り向けば、すっくと優子は立ち上がっていた。視線を逸らさず、数時間前までの視線とは違う力強さを持っていた。
「何だよ、それ……なんなんだよ、一体!」
 穏やかではない台詞に、真一は心の底から思い、願う。
 ああ、これがユメでなかったとしたら。一体なんだと言うのだろうか?
「僕は、謝るつもり。ないから。
 だけど、忍には怒らないであげて。忍は、僕の代わりに彼を。お兄さんを殺すよ、だけどそれは僕の代わりで、僕の命令で、何か言われるのは僕の役目だから」
 ぞっとしたのは、言葉の字面ではない。
 背筋を走った寒気は、決してビル風や地上より高い位置にあって気温が低いからではない。強風に煽られて、今にも倒れそうだからではなくて、それよりも問題なのは。
「だから、恨みも思いも僕に頂戴」
 語った言葉は、かつて聴いたことがある。
 それは過去を語る老人達の、かつて存在していた夢よりも遠い仁義の世界。
 今では物語でしか描かれない世界を、孫息子ほどの年齢の真一に語られた内容に関して。少なくとも、趣味ではなかったけれど聞いてあげることは老人達にとっての癒しになった。
 その当時、組長に仕える幹部クラスだった老人の一人は生きたまま捕まえたと言う出入り先の組の若者を相手に、同じ言葉を告げたという。そして、生きたまま警察への証人として引き渡す際に優子と同じ言葉を語り。
 最後に、若者が出てくるまで待っていると言ったそうだ。だが、その後の話については何一つ聞いた覚えは無くて。
「このまま生きる事は、お兄さんの本意ではないから。絶望のまま、生きる希望も望みもないままで生きるのは辛すぎるから。
 だったら、僕に出来る事は一つしかない……僕の力を持って忍に殺して貰う事。
 それしか、ない」
 言い訳でも、許しを請うわけでもない。
 嘘でもないのだろうが、優子の力を忍が使うと言う言葉を真実理解出来るとは思わない。
 大体、どうやって。どこから忍の持つ剣は現れたと言うのだろうか?
「俺は……」
 俺は?
 何が言いたいのか、なんて口にしてから勘がえてしまっていた。だから、本当は何が言いたいのかなんて判るわけはない。
「なんでなんだ、どうしてなんだ? こんな事に、俺達関係なかった……こんな事になんて、なるわけなかったのに……」
「決まってた、お兄さんは選ぼうとした。
 忍じゃないけど、どちらでも良かった。対象となるのが兄でも弟でも、どちらかが選べばそれで話は終わり。どちらかは関係が生まれ、どちらかは関係が切れる、それだけ」
 つかみ掛かりたい衝動に駆られたけれど、それはこれまでの経験から止めた。いかに正和と忍が強い風の中で行動を強いられている中で生きようと足掻き、殺そうと動いていても。恐らく、それよりも最優先にしなくてはならない事項は目の前に存在している。
「なんなんだよ、それは……」
「僕だよ」
 神河優子は、こちらを見ない。
 視線は、その眼差しは決して戦う二人に向けられたままで真一を見ない。この風の中でよく出来るものだと感心する事すら出来る筈なのだが、よく見れば優子の周囲にはそんなに強い風が吹いていない事が見て取れた筈だ。
「僕が、全ての原因だよ。僕が存在するから、皆はそうやってどいつもこいつも……しかも、僕の意思なんて完全に無視するんだ。僕の側で上手い事言って、甘い事して、結果として皆して自分から僕を追い詰めるんだ」
「わかんねぇよっ!」
 言っている事が、嘘でも間違いでもないだろう事は判っている。これまでの奇怪な現象の数々を思えばそれは当然の事だろうと思うが、それでも真一は麻痺しそうになる感覚を奮い起こさせて常識にしがみつきたかった。
 こんな事、起こるはずがない。単なる夢で、自分は本当はまだ病院で眠っているのだろう。包帯で全身をぐるぐる巻きにされて、看護士に時折体を拭いてもらって、時々診察に来る医師にモルモットよろしく書類をちらりと見られて……そうだ、だからこんな馬鹿げた夢を見るのだと。
「目を逸らすな!」
 声は、力強さを持っていた。周囲に風が舞っている事からも、それなりに大きめな声は出しているのだろうと言う気はする。けれど、それでも彼女の肉体からはそんな大きな声が出るとは考え付かなかった。
「あれは、君だ。君がなったかも知れない、けれど。君のお兄さんが選んだ現実で、未来で、過去だ。君にこの場面から目を逸らす権利なんて、君にこそないんだ……」
 どうしろと、言うのだろうかと。真一が愕然と、呆然としてしまうのは無理もない。
 泣きじゃくる子供のように逃げ惑う兄は、記憶の中のつい先日までこの界隈では少しは名の知れた暴力団の幹部候補だった。何がそんなに正和の心を占めているのかは判らないが、少なくともあんな姿は子供の頃に母親と病院沙汰になる喧嘩をして以来だ。
 対する忍と言えば、手に持った長剣を振り回してはいるものの直ぐにどうこうしようと言う気がないのか。優雅に踏むステップで翻弄している様に見えて、実際にそうなのだろうと言うのが素人目にも判る。
 まるで、いたぶっている様ではないか。
「そんな事、言われても……」
 誰かに何かを説明して欲しいと言う気がしてならない。それは最初から思っている事だと言うのに、まるで意地悪をするかの様に誰も何も説明の一つもしてくれない。
「だから、代わりに君が背負うべき罪を僕が背負うから。
 だから、君は目を逸らしちゃいけない。君が背負うべき罪を僕が。君が受けるべき罰をお兄さんが背負っているから。
 だから、他には何もしなくていいんだよ」
 誰なのだろうかと、真一は思う。
 もう、何もかもがイヤだと思った。体のあちこちが悲鳴を上げっぱなしで、全身に殴りかかってくるかの様な風とか。ついでとばかりにいつのまにか流れる涙が頬にこびり付いて風で乾かされて、ひりひりする感触とかがなければ。まさしく「夢」の一言で片付けても構わないと思っていたくらいで、けれどそんな事は無理なのだと言う事も同じくらい。
「やめろよ……」
 口を出た言葉は、自分でも無意識だったのだろうと言う気がした。呟きに近い言葉が、この荒れ狂う風の中で誰かの耳に、自分自身の耳にだって届いたとは思っていなかった。
「もうやめろよ……判ってるだろ……」
「どうして、止めるの?」
 何も判らない事を免罪符にしようとは、そんな高度な事は考えていない。それでも放たれた言葉は、やっぱり子供の理論だ。
「君を殺して、君の持つ全てを奪い取ろうとしているのに、何故? 許すの?」
 答える声を考えたら、常識から言って目の前に居る神河優子しか居るわけがない。
 この場に居るのは4人だけ、全て知っている人で実の兄とクラスメイトに、自称その下僕と公言している人物。
 なので、聞こえてくる声は知っている誰かの声でなくてはならない。そうでなければおかしいと言うのに、何故かその誰の声でもない様な気がして。けれど知っている誰かの声の様な気がして。
「何故って……」
「兄弟だから? 兄だから? 家族だから?」
 そうでもある様でいて、それは違う気がしているのは事実だ。こんな世界に足を踏み入れて母親が裏で諦めついでに泣いていると言う気もするけれど、その母親を守る事を盾に兄に従っているのは、自分自身。
「ムカつくからだ!」