16


 光が、見えた。
 始まれば、いつかは終わりが来る。その絶対普遍な出来事は世界の始まりと終わりにも当てはまるから、例えばそれが超高層ビルの一階から最上階まで上がる事であろうと。その程度の事ならば、不文律から解き放たれる事などはない。
「ご覧になると良いでしょう、尾崎真一さん。
 今、目の前にある事こそが……」
 呼吸は乱れたままで、視界はぼんやりとしている。耳に届くのは風が通り抜ける音だけの様な気がするし、全身から吹き出た汗が服をべったりと張り付かせているのが不快感を呼び起こしているのは言うまでも無い。
「貴方達兄弟の、罪です」
 この当たりのビルと言えば、大小様々なものがあると相場は決まっている。しかも、これまで昇ってきた階段の高さを考えるとめまいを起こしそうになり、宝石箱をひっくり返したかの様なまばゆい光の海はビルの最上階ではないけれど立っているのが辛い。
「兄貴……?」
 ここは、ビルの階段の最上階ではあるけれど。ビルの最上階ではなく、辿り着いた先には両端にまだ登れるのかも知れないビルがそびえている。
 はさまれた中腹は、目の前に遮るものが少ないせいか結構な遠くの距離を見通す事が出来て何十年も生きてるわけではない真一に感動の一つや二つ起こさせる事は出来ただろう。
 こんな、目が見開いて真っ赤になり。
 耳は僅かではあるがとんがるほど広がり、口は半開きになって涎が垂れているけれどビル風によって真下ではなく横向きに飛んでいるのが滑稽と言えば滑稽だ。
 すでにスーツは度重なる戦闘でぼろぼろとなり、その腕には気を失っているのかぐったりと身を委ねている少女の姿がある。
「許しはしません、故に処罰します」
 正和が流しているのは、涎だけではなかった様だ。鼻水は判らないが、血走ったと言うよりも真っ赤に染まっている眼球からも流れる何かが。涙の様なものが流れていて、けれどすでに夕闇が過ぎ去って暗闇に覆われた世界では、人口の明かりがどれだけ照らそうとしても細かいところまで見極められるほどの威力を発揮する事などない。
「渡さない、誰が……誰が、これだけは」
 まるで、子供みたいだ。
 正和の姿を見て、真一はそう思った。そう、思うしか他に何かを感じたり口にしたりする事は出来ないと咄嗟に思った。
 忍を恐れているのが判ってはいたけれど、すでに真一を倒そうなどと思っている事も無い事が判ったけれど、それでもと思う。
 声は、さっきまでの恐ろしい奇怪な音とは違っていたけれど。今度は精神年齢が下がってしまったかの様だったし、昼間の激突の後で二人が一緒にいると言う事は正和が優子をさらったと言う事になるのだろう、どちらにしても真一にはどうして兄が。そして忍がそこまで優子に固執するのか理由は判らないけれど、それでも二人が優子に対して並々ならぬ感情を抱いているのだと言う事だけはかろうじて判った。
「処罰って……何を物騒な……」
 出来れば、問題点は山の様にあっても一応は実の兄なので酷い事にはならないで居て欲しいという気はする。何しろ、まだ聞かなくてはならない事も確かめなくてはならない事も、ついでに決めなくてはならない事も山積み状態なのだ。
「物騒ですか? 罪を犯した者が償いを果たさなくてはならない事は物騒ではありません」
 同じだけの階段を駆け上がってきた筈の麗しい美貌の少年は、息の一つも乱す事はない。
 何となく、薄ら寒いものを真一は今更ながらに感じる。
「主に楯突く事がどういう事か……その身を持って思い知れば良い」
 忍の表情は、酷く冷静だ。冷静と言う言うよりも冷酷といった方が正しい様な気がするし、更に言えば感情に全く揺らぎがなく優子の身を案じているそぶりが見えないと言う事は、それ以上に怒りを覚えているからだと言う見方も出来る事に気がついた。
「主って……」
「彼の処罰が終われば、次は貴様の番だ」
 すっと音も無く構えた忍と、その忍に反応した正和が優子を抱く腕に力を込めたのと。
 気を失っているのに終始微妙な体制で抱きしめられて居た所へ、力がより強くこめられた優子が声を出すのと。そのどれもに対して適切な反応を示す事が出来なくて、思わず全体を見回してしまった真一とは、同時に起きた。
「ダメ……!」
 突如、覚醒した優子が正和を突き飛ばし。
 体制を崩した正和は、攻撃を繰り出す為に走ってきた忍への反応に遅れた。その忍は、崩れた体制の為に衝撃が正和と優子の二人に半端にかけられてしまい、優子は妙に高く肉体が飛び上がり……それは、ビルの起こす追い風のせいだと言う事が判って。
 とても、静かに頭の中ではシナリオが書きあがっているのが判った。スローモーションで全ては動きを起こし、現実には数秒の出来事だと言うのが判ったし、例え駆け出しても追いつく筈などないと言うのが常識的な考えであると言うのも判ったし。
「優子様っ!」
 どうして、こんな事をしているのだろう?
 真一が、ぼんやりと思ったのはそう言う事でしかなかった。
 何があったのだろうかと考えたら、そこにぴったりとはまる言葉は一つしかなくて。もしも、これが一瞬を争う様な事態ではなくて、もっとゆっくりのんびりと考え事が出来る時間の間に考えられたのならば良かったと思いつつも。きっと、今この瞬間でなければその思考に辿り着く事など無かったのだろうとか思ってしまい。
「重ぇよ、てめえ……」
 追い風に乗って高く飛んでしまったものの、そこへ新たに加わった真一の重さと力を込めて引っ張った引力との関係で堕ちる事は無かった……それでも、受けた衝撃の為に擦り傷と打撲を感じるのはどうしようもない。
「う……ばか……」
「待て、なんだそりゃ……」
 どこかを打ったとか言うより、それ以前の問題として受けた衝撃でくらくらしているのだろう。ボールに入れたプリンが衝撃で中身だけ砕ける、と言うと御幣があるが判りやすく説明するとそんな感じだ。
「きもちわるい……」
「げっ、吐くならどっか行けよな……!」
 気持ち悪いのもお互い様だし、何とか生き残ったのもお互い様だ。
「お怪我はございませんか、優子様?」
 一体、いつ表れたと言うのか……この強風の中で忍は髪一筋乱すことなく優子の側にさらりと存在してる。
 そこまで来てしまうと、最早すごいを通り越して怖いとか言いたくなる。
「大丈夫……ちょっと、気持ち悪いけど。
 一応、ありがと。ばかだと思うけど」
 余計な一言が多かったが、それでも気持ちの悪さを堪えて言われたお礼の言葉を無言で受け取る。同じだけの気持ちの悪さを覚えていたからだと言うのもあるし、体を酷使したあとで叩きつけられた為にショック症状に陥っているからだと言う話もある。
「彼は……」
「ご覧になってはいけません、優子様」
 優子の視線は咄嗟に忍が遮ったから何とかなった様だが、真一はそう言うわけにはいかなかった。
 ごくりと、喉が鳴るのを感じた。
 一体何があったと言うのか、それは側に居なかった真一には判らない。
 突然の展開に、ついていけない気はした。
 否、今までの展開の最中で付いていけた事なんて何一つ無かった気がした。
「忍、放して」
 まだ少しふらつくのだろう、真一だってふらつくのだ。とは言っても、優子とは立場も違うし状況だって全く違うのだから。一概に比較など出来るわけでもなく、それでも同じ程度には体力的にダメになっているだろうと言う気はした。
「ですが……」
「放して」
 何とか上体を起こして、そうして初めて真一は己が冷たいビルの屋上で横に寝転んでいた事を知る。こちらから伺い知ることは出来ないけれど恐らく、正和の姿は飽和状態にでもなっていると言う事なのだろう。僅かに揺れている様に見えないこともないけれど、それはこれだけの強風の中に居たら当然と言う話だって否定する事は出来ない。
「これは、僕が僕の目で見て。耳で聞いて、そして僕の口で語られなくてはならない。
 忍、君の気持ちは嬉しい気もするけれど。だからって、そうやって君の庇護下にあったら。それは彼に対して、とても失礼だ。
 僕は、そう思う……忍は? どう思う?」
 出された声は、決して大きなものではない。
 語れた言葉は、稚拙ではあるけれど迷いはない様に思える。
 理論は子供のソレだし、優子本人に特別な力などないだろう。あれば、今頃は己の力でどうにかこうにかして居る筈だ。
「忍、命を下す。躊躇う事なかれ。
『帯刀を許す、抜刀せよ。そして我が前の敵を討て』
 行け」