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 一体どう言う事なのか、のろのろと起き上がる真一を見つめる忍の瞳は冷たく蔑んでいる。周囲には相変わらず人々が取られた距離の向こう側からこちらを見つめている様な気がして落ち着かないが、それでも顔を認めるほどの距離に近づいていないと言うのは何か近づけないようにされていると言う事なのだろうと言う気がした。
「あの方を陥れようと言うのであれば、私はあの方が何と申されようと貴方を許すつもりはありません」
 静かな口調ではあるが、故に怒りがどれだけ強いのかを思い知らされる。
「どういう……意味、だ」
 呼吸をする度に、大して力など入っていなかった蹴りで食らった箇所に痛みを感じる。
 武道の心得があれば、最小の力で最高の攻撃をする事は出来るだろう。忍ほどの金持ちともなれば狙われる事などもあって自らを鍛える事くらいはするかも知れない。とか、実はそこまで考えたわけではない。真一だって実戦派と言うわけではないがそう言う方向性では真一だってそんじょそこいらの奴等に負けるつもりなどはない。だからこそ、この痛みに対しては様々な方向性から衝撃を受けるのには十分だった。
「なんだ、それ。どういう……」
「お許しがいただけるのならば、今すぐ息の根を止めても差し支えはないと言う事です。
 幸いにも、今ならばまだ間に合うだろうと思いますしね……ですが。事が済んでしまってからでは遅い、故にあの方は避けようとなされていた。この事態になる事を、最悪の事態を回避しようとされていたと言うわけです」
 呼吸を整えて、何とか起き上がる。
 そこで、初めて真一は正和も優子も姿を消している事を察知する。
「最悪の事態って……」
「やられました、あの方を止めたりするから……本気で私へ命じようとされていたと言うのに、それを止められた。恐らく、最もそれを望まぬ相手に。
 彼の気持ちは、痛いほど理解しますね」
「何、それ……」
 果てしなく、間違った答えを出した。
 判るのは、それだけ。ただ、もしもこの事態になる事が判っていたとしても勘が告げた様にもう一度止めるだろうと言う事は判ってしまったわけで。
「あの方の命により、処罰される……二度と社会的に復帰する事はない事態になる。それは悲しむべきであると同時に無二の喜びであると言うのに、それを最大の敵である弟に止められてしまったのですから、当然です」
 真一には、忍が言っている事が判らない。
 言っている言葉の意味も、そして内容も判りたいとすら思わない。だけど忍が間違っていたり嘘を言ったりする必要がないと言う事だけは判る。
 ならば、今。
「それって……どう言う事、なんだよ?
 なんだって兄貴は、俺を殺そうとするんだ? どうして神河は俺や兄貴の事を、どうするつもりなんだよ」
 そして、二人はどこへ消えてしまったのか。
 今の真一には、最後の質問をする勇気は無かった。それをするには、まだ足りない。
「差しさわりのない程度には話しましょう、秘密裏にする様に指示を受けておりませんし」
 忍がのんびりとしていると言う事は、事態は思いのほか安定している事なのだろうか?
 一瞬、真一には甘い誘惑にも似た考えがおきる。だが、直感は最悪の事態が起きているのだと告げているのに神経が追いつかない。
「尾崎正和氏は、あの方を欲しておられます。
 この世で、今現在に置いて人社会の作り上げた富も名誉も何一つ正和氏の心を動かす事はありません。恐らく、あの方のお言葉一つでいかようにもなるでしょう……ですが、彼がこれからも共にある事などはありません」
 歩き出した忍は、真一を待とうなどと言う思考を持ち合わせていないらしい。決して足取りは淀んだりしていないのに、走り出そうと言う気配もないのに妙に早くて、真一は小走りでなければ追いつけない速度だ。
 目前に差し迫った建築物の扉が、開ききる前にぎりぎり体が入れないのではないかと思う広さに入り込み。それでも真一は僅かに扉に体をぶつけて痛みを覚えはしたが、それでは更に狭い距離をどうやって忍が入り込んだのだろうかと言う疑問が生じる。
「なんで兄貴がそんな……」
「どちらでも、本当は良かったのですよ。
 少なくとも私は、正和氏であろうと貴方であろうがね。あの方の礎の一つとなれるだけの力を持つと言うのであれば、それで」
 何を言っているのか、更にちんぷんかんぷんな状態だ。固有名詞は正和の名前だけだし、しかも正和は優子に対して絶対的な意識を持っているとか言う。
 普通ならば、どう考えても信じられない。
 何しろ、優子は真一のクラスメイト。余程の事が無ければ義務教育で留年などはないし、そんな話もついぞ聞いたことがないので無いとしても。恋愛感情が芽生えたとしても、間にはロリコンが成立するほどの時間が横たわっている筈だ。
 真一の知っている限り、正和にそんな趣味は無かった筈だと言う気がする。
「なんで……って言うか、どう言う意味なんだよ? それもあるけど、なんでいきなり階段でどこまで行くんだよ!」
 どこをどう歩いたのか知らないが、忍の後をついて回ると昇りの階段を上り始める。しかも、一階分や二階分ではなくて最低でも五階分はすでに上ったはずだ。
「血のなせる技……とでも言うのでしょうね」
 当の忍と言えば、先に立っているだけあると言うのか息も切らさない。しかも、階段特有の音響のせいか上る足音と忍の声が重なってわんわんと真一の耳をつんざく様な反響が繰り返し起きている。
 はっきり言って、これは精神的に悪い。
 体力には、はっきり言って自信があると言うか、あった。過去形になったのは「煙草、やめるかな……」とか思い至ってしまったからだ。
 だが、真一は気がついていない事が一つ。
「貴方達兄弟……いえ、それに限らず。あの方は背負われている運命により、その守りとなる存在が決められています。そのうちの一つが、貴方達兄弟のいずれかなのです」
 螺旋を描くかの様に、忍の言葉が真一の中で反響を起こす。一度耳に入った筈の言葉は、どういうわけか何度も記憶を巡っている感じがして、同時にあるわけも無いが同じ言葉が何度も耳の中を通り過ぎている錯覚を起こす。
「だから……なんなんだ、よ。それは……」
 すでに、何度角を回ったのか真一は数えるのを止めていた。何階分の階段を踏んだのかも、判らなかった。
「貴方達兄弟だけではありません、幾つもの者達が。あの方を支えるために存在している……あの方は、とてもお優しい。故に、私ですら以上に踏み込む事を望まれないのです。
 その様な事、黙認出来るはずもないと言うのに。だとしても、あの方は足掻こうとする」
 喉の奥から、ぜいぜいと言う音がする。
 すでに、言語を発しようなどと言う考えを真一は持っていない。ただ、妙に冷える空間に居る筈なのに乱れる呼吸と暑さと熱と、体がすでに悲鳴を上げ始めていると言う事や。加えて、最早階段を駆け上がる行為に没頭してしまっている自分自身の感覚がおかしくなっている事を忘れさせていた。
「口惜しい、他の者などなくとも。私の存在だけでも十分にあの方をお守りする程度の事は可能だと言うのに、なのにあの方は必要以上の私の介入すら拒んでしまわれる……あの方が真実求めるのなら、拒むのは難しいとご存知であるが故に」
 どこまで上れば、この階段に終わりは来るのだろうか? そんな事を考えていられたのは結構最初の方だけで、肉体も精神もとてつもないダメージを追っているのは確かなのに。ただ「階段を駆け上がる」と言うだけの普段ならば面倒くさくてどうしようもない行為に没頭しているのだと気がついたのは、現実逃避なのだと言う事に気づいた直後だった。
 今、直ぐにでも兄を。そして同時に消えた筈の神河優子を探し出す必要性を感じるけれど。それでも、探し出したくないと言う気もしているのは確かだ。
「あの方は、貴方達兄弟の為にお心を痛めておいでだ……その様な必要など、どこにもないと言うのに」
 必要がないことは、真一にも判っていた。
 神河優子と言う存在と尾崎兄弟には、弟がクラスメイトだと言うだけで他に接点らしい接点などない。あえてあるとすれば、苛めの対象者と傍観者だと言うだけであって、その苛められている当の優子が傍観者である真一の為に何かする必要など微塵もないのだ。
「全て、私以外の全てを滅ぼしてしまいたと思う事もありますよ。しかも、あの方は煮えきられない貴様の為に自ら罪を背負おうとなさった……それがお望みであるのならば、私は止めようとは思わない。
 だが、貴様は止めた。それを望み、拒絶したがった正和氏はこれ以上はない憎しみを覚えた事でしょう、この世にあるあらゆる望みが弟を選び。唯一、あの方は自ら処罰を下そうと言う慈悲を賜ろうとした瞬間に最も憎むべきその相手が留めた。
 それは……耐え難い事でしょう」
 何故?
 言葉にはならない思考の海で、真一はそれしか思う事はなかった。