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 一度、顔は伏せられていた。
 当然といえば当然の事で、身長が平均値より若干下回っている優子の視線の高さでは平均値より若干高い視線の真一を水平に見たり上から見下ろす事などそのままの高さでは出来ない。もっと大人になって、高いヒールのついた靴でも履けば話は違ってくるのかも知れないが、皮のローファーでそれは無理な相談だ。
 だからこそ、真一は勘違いしていたのかも知れないと思い知る。
「ならば、僕は……もう、君に」
 苦渋をなめたかの様な表情は、同じくらい強い決意を秘めた瞳をしてるのが判った。
 苛められていても、決して弱くはないのだと言う事を知った。
 表面的、肉体的に苛められていないからと言って傷が全く付かない人などこの世には存在しないのだと言う事を真一は知らなかった。
 自分が放り込まれた世界は、それこそ肉体でしか語る事の出来ない研ぎ澄まされた感性と俊敏な動作と立ち回る事の出来る柔軟性を求められていたから。それを逸早く知ったからこそ真一はあの世界でも穏やかな時間を手に入れる事が出来たけれど、世の中にはそれを「してはならない」と言う存在も居れば「出来ない」と言う存在もあるのだ。
 世の中には「知らなかった」と言う事や「考えも付かなかった」と言うだけで済まない話も、存在する。
「遠慮は、もうしない……」
 何かをした、と言えばしたのだろうか? 少なくとも、真一には優子が視線をずらして視界の角度を変えたと言うだけにしか見えなかった気がした。
 けれど、そう思ったのは真一だけだった様であり。
「排除スルノカ!」
 とても、人の出せる音域ではないと言えるほどの……言うなれば、雑音。
 実の兄であるにも関わらず感じる恐怖を、真一は恥ずかしいとか言う気持ちが沸き起こらないわけではなかったけれど。
「少しだけ、ずれてただけなんだよ……そうとしか、僕には言えない……」
 何が変わったのだろうかと問われれば、真一には何一つ答える事など出来ない。周囲は相変わらず風が舞っているし、十重二十重に見ているだろう観客達は煽られているのか多少の悲鳴が上がっているが怪我とかをしているとか言うわけでは無さそうだ。
 あえて言うのならば、巻き上げられた風がカーテン状態に真一や優子たちの周囲に壁を作っている様に落ち着いたら見えたのかも知れないと言う事だろうか?
「排除って……何が……」
 何かが、あったのだろうと言う事は判ったけれど。その内容に至るまでは想像もつかなくて、優子と正和の間でだけ成り立っている何か……この場合、多少は呼吸が乱れたらしい忍が息を整えている彼が全てを理解しているのかどうかと言う問題については考えも付かなくて。
「謝らないから、だから……」
「貴方モ選バナイノカ!」
「僕は誰も選んだりしてないよ!」
 言い合いを、忍は止めたりしない。水をさしたりしないとか言うのではなく、決して気を抜く事なくこちらを見ている点から優子の邪魔をしたくないのか、それとも何かを待っているのだろう。少なくとも、それは隙ではないだろう事は判る。
「選ぶのは、いつだって僕じゃない。僕の願いとか希望なんて、叶った試しがあったって言うのっ?」
 堪えているのだろうと、そう言う気がした。
 何を堪えているのかまでは判らないけれど、当事者である筈なのに脳みそが状況についていけなくなったのか許容量をオーバーしたのか、真一にとってこの状況は舞台から見た演技の最中の様な傍観者みたいな気持ちだった。
「いつだって、誰だって……そんな顔して近づいてくるのに。皆して、どいつもこいつも僕のことなんて……誰も……!」
 震えているのが、見えた。
 全身から、何か押し込められていたものが噴出しそうになっている。噴火する直前の火山の様だと思いながら、どうしてそんな事を考えているのかと言う気がして。
「だから」
 けれど突然、その瞬間は訪れる。
 今にも燃え上がりそうな炎は、冷水をかけられたかのような絶対零度を持っている。
 コレに触れてはならないと、全身の全ての神経が最大アラームで警告しているのをぼんやりと感じていた。
「僕は君に対して謝るつもりは、ない」
「ソシテ貴方モ、それヲ選ブノダナ……」
 ソレと言われて、反射的に真一は身を強張らせていた。
 何に選ばれたのかと言うのか、真一には全く持って身に覚えが無いのだ。それどころか、今まで生きてきた時間の中で兄に好き勝手に扱われてきた事くらいしか記憶には刻まれていない。母親との原因不明な確執だって、それ以上に状況を悪化させないための幼い浅知恵に過ぎないと思っている。
 そんな自分自身に、兄が誰が。何を持って真一を選んだというのか理解出来ない。
「言った筈だよ、僕は何も選んだりしてない。
 本当に僕が何かを選んだと思うのなら、それは後にも先にもたった一つだけ。世界に現出した瞬間に感じて、思った事だけだよ」
 判ったのは、ダメだと言う事。
 一体何がどう、ダメなのかとかは一切判らないけれど。ただダメなのだと言う事だけは判って、それは。
「ダメだ!」
 掴んでいたのだと判ったのは、優子が痛みに呻いてからだった。
「何なんだよ、お前何しようとしてるんだ!」
 つかみ掛かった肩は、中学生らしい華奢なものだ。上着とか太っているとか言う点を除いても、やはりまだ肉体が出来上がっていない子供なのだと感じただろう。普通の意識だったら、その程度の感情は沸き起こった筈だ。
 けれど、今の真一は違った。そんな事は一切思いつかず、何がなんだか判らないけれど優子のやろうとしている事を止めさせなくてはならないと言う事しかなかった。
 予感? 違う、核心だ。
「優子様!」
 予想していなかった事態と言うのは、優子もそうだが忍もそうだったらしい。左の肩と腕を掴まれた優子は痛そうに体を歪ませたのと、忍が叫んだのと、そして正和が突進してきたのは同時に行われていた。
 それまで、周囲を外壁として守ってきた筈の風のカーテンが一つ所に集って真一と優子を吹き飛ばしたのが、次に訪れた事だった。
「い……てぇ……」
 痛みに慣れる様な環境と言うのが幸いだったのか、回復は早かった気がした。
「ぐっ……!」
 けれど、次の瞬間には新たな痛みを感じた。
「さ……くら?」
「なんて浅ましき事か……!」
 判ったのは、真一の腹部に蹴りが加えられているのだろうと言う事だった。
「ぐ、はっ、や、やめ……」
 思わず体をひねって転がれば、そこまで追いかけるつもりはなかったのか忍の蹴りが止む。しかし、落ち着けば大した力が入れられていたわけでもないし忍にそれだけの猶予があると言う事は別の問題と可能性があると言う事なのだ。
「私は、悪戯に貴方を混乱の素とする為に手を貸したわけではありません」