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 何か物事が突然起こるとしたら、それに見合った前触れなり何かが起きなくてはならないと言うのが物理現象から来る前提だという話がある。が、真一はそんな事は記憶に全く無かったし、仮にその事実を知っていたとしても「今それが何かの役に立つのかっ!」くらいの事は言ったかも知れない、と言うよりも確実に睨みつけながら言っただろう。
「ああ、もう!」
 地団駄を踏みそうになってから、はたと己が何をしていて何をしようとしたのか冷静になってしまったのは今更の失態だと真一は思う。
 どうせならば、こう言う時はとことんまで情けない姿をさらしてしまった方が立ち直りは早いものだという事をしっているからなのだが。不特定多数の人々の中に、これまでとかいつかの可能性で知人となったりする人の姿が見え隠れしないとも限らないと言うのは恐ろしいものだと思う。
「なんで……?」
 そんな瞬間に、聞き覚えのある声が絶望的な言葉を発していると気づいてしまったら。
 もはや、地団駄を踏む程度のことで何か事が終わるという事はないと言う事なのだろうと言う気にさせられるから不思議だ。実際には、まだ何も始まってすらいないと言う現実については少しばかり目を瞑っていただく必要があったりするのだが。
「なんでここに……どうして……!」
 絶望的な声は、絶望的な表情を伴っているのは想像を容易くする。
 その顔を見れば、実はいかに彼女がこの事態を避けたがっていたかが簡単に想像する事が出来て。けれど、それをほっとする感情と怒りを覚える感情とが、ない交ぜになっているのもまた、確かだった。
「下がりなさい!」
 彼女より距離を置いた向こうでは、実の兄と美貌の同学年が戦っている様に見える。
 実の兄にしてみれば、実の弟の目から見ても「おいおい、大丈夫かよ?」と言いたくなるほどに怪しい瞳と表情をしていて、正直言うと心の底から「関わりたくない……」と言いたくなるほどに恐怖心を覚える。しかも、何やら本気で実の弟に対して殺意を覚えて実行しとうとしているのだから当然だ。
 美貌の同学年にしてみても、実は兄と大差ない状態の様な気がする。何やら不可思議な動体視力と運動神経を駆使しているのか、幾ら撃っても弾が切れる気配を覚えない謎の拳銃を避けながら距離を詰めては軽いダメージを与えてはいるみたいなのだが、それが決定打になっていないと言うのが現状の様だ。
 そこまで冷静に考えられたのは、もう一人の人物。神河優子が絶望的な表情で絶望的な声を上げて、しかも別れて逃げた筈の真一と無意味に再会してしまった事以外で原因などあるわけがない。
「どうしてこんな所にいるんだよぉ……」
 もしかしたら、と思う。
 ずっと、気を張り詰めていたのだろうか?
 だからここへ来て、急に何もかもが。糸が切れてしまったみたいな絶望感を味わっているのではないだろうか?
 同時に、違うのだと囁く声がする。
 神河優子と言う少女は、もう。
 ずっと、何もかもに絶望しているのだと。
「そっちこそ、なんだってこんな所に来るんだよ! 何やってんだよテメェっ!」
 判っていても、想像出来ても、仮にそれが事実だと理解出来たとしても、奴当たるしか真一に出来る事がないのは事実だ。
 体調を崩して、助けを求めて、得られた助言から該当するだろうと思われる場所に来て見れば、ずっと言いたい事があった対象者が全員揃って戦闘中なのだ。
 ただし、どうやら神河優子の存在と相手が実の弟ではないと言う点から考えてかなり手を抜いている様に見える……もしも、その表情やら何やらがまともに見えたとしたら。
「尾崎君が引き寄せたんじゃ、ないのっ?」
 お互いでどこか無茶苦茶な理論を振りかざしている様な気はしたのだが、どちらもパニック症状に駆られているのか歯止めと言うものが効かない状態になっている様な気がした。
 それに、正和がゆうらりとこちらを。真一の存在を認めた様な気がして、その表情がヤバ気な薬の中毒にでもなっているかの様な感じがしたけれど。
「おい……兄貴は、なんだってあんな状態なんだ? 何が、あったんだ?」
 聞いても、暴力団とは全く係わり合いのない世界で育ってきた筈の一般人でしかない中学生の、それも苛められている標的の少女に聞く事ではないと思って。
「ああ……尾崎君には、わかるんだ……」
 即座に「聞かなかった事にしろ」と言う暇もなく言われた言葉に、真一は言葉を失った。
「どういう……事だ?」
 じっと、忍と正和の対立を見つめて。それ以外の事は出来なくて、しようともしなくて、見ていると言う行為に全力を注いでいる様な感じに、真一は戸惑いを覚える。
 そして、同時に忍が全力で真一と優子を守っているらしいと言う事実に戸惑いを覚える。
 優子の命令だから、必要最低限ではあるが「守ってやっている」と言う空気が伝わってくるのだから、困ったものだ。
「本当に、本気で……言ってる、の?」
 こちらよりは、幾分冷静で落ち着いているのだろうか? それとも、もはやそう言う言葉でしか語る事は出来ないと言うことなのだろうか?
「なんだよ、それ」
「本気で……そんなこと、言うの?」
「だから、何が……」
「ウセロ」
 狙いが甘かったのか、それとも単にわざとなのかは判らないけれど。それが当たらなかったのは、恐らく単なる幸運なだけだったのだろうと言う事だけは判った。
 ちゃきっとピストルがセットアップされたと言う事だけは判ったのだが、その目から放たれる感情と無機質な硬質な機械が何やらギャップを呼ぶのに違和感を感じる。
「それはこちらの台詞です!」
 足からの攻撃を持って、忍が割り込んでくるのは別に真一を助けようと言う意思は感じられない。しかし、そこに何やら怒りの感情が含まれているだろう事は確かだ。
 武器を持っていない、決定打を打てない忍は確かに不利ではあるが、だからといって負けているかと言われたら必ずしもそうではないと言う事だけは判る。
 だが、何が正和の感情と言うか決定打を封印させているのか。その何かと言えば、もしかしたらもしかしてもしかしなくても心当たりが一つだけ。
「忍……!」
 舞い上がるのは道端に落ちた枯葉の海だけではなく、そこに含まれるだろう粉塵もある筈だ。一体何が起きているのか、この状況を正しく理解出来ている人がいないらしく人々は距離を置いて何事かを見極めようとしているのかは判らないが。とりあえず警備員らしい人達が安全の為に、一定の距離を保って周囲の人達を先導しているらしい事だけはわかった。
「優子様、抜刀の許可を!」
「ダメだよ!」
 何やら物騒な台詞を吐いた忍は、もしかしなくても追い詰められているのだろう。この状況に苛立ち、何やら決定打となるだろう秘策を優子に求めている。しかし、優子はそれを許可しない。
 許可など取らなくても勝手にやれば良いと思うのだが、それを決めるのは真一ではない。
「おい、神河……」
「そんなのダメだよ! それは僕達がやっていいことじゃない、それくらい忍にだって判ってるじゃないかぁっ!」
 血を吐くような、とでも言うのだろうか?
 優子は、あくまでも視線を逸らさない。忍と正和の攻防を見守っているけれど、その表情はあくまでも悲痛そうなものであるのは確かで。なのに、それを終わらせる策を忍はどう見ても持っているのに許可を出さない。
「なんだか判らないけど、あいつにやらせてみたらどうなんだ?」
 今が異常な事態だという事は、判る。
 とりあえず、真一の人生の中で実兄に直接殺されそうになったのは昨夜が始めてだ。意外でもなんでもなく、実は間接的にならばいじめに近い状態にあってるんじゃないだろうか? と言う疑問は以前からあったのだが、実際に手を出されたのはこれが初めてなのだから暢気なものである。
「馬鹿っ!」
 しかし、こう言う状態になるのは割りと暢気に構えていられるのに。正面切ってクラスメイトの女の子に「馬鹿」とか言われるのは、切れるのが早い様である……実際には正面ではなくて横に居たわけだし。相手がクラスでも苛められている存在だからなのかも、知れないのだが。
「馬鹿ってなんだよ!」
「馬鹿だか馬鹿って言ってるんだよ、そんな事もわかんないのっ!」
 言われて、直ぐに言い返せなかった理由は判らない。ただ、相手があまりにもまっすぐに単刀直入に、しかも躊躇いを欠片も見せずに踏み込んできたのが理由なのかも知れない。
「お前になんか言われたくない!」
「お前って言うな、僕だって言いたくない!」
 いきなりにらみ合っているが、忍の視線を感じて真一はいきなり正気に返った。正気に返ると言うより、背中を巨大な刃物で押さえられたらそんな感じだろうか?
 脅迫されている様な、それでいて何もされていない様な。実際の忍と言えば踊る様な優雅さを持ってすでに意思すらあるのか不明な様子の正和を相手にこちらへ向かないように牽制していると言うのに、なんとなく余裕すら感じる。
「ねえ……本当に、判らないの?」
 真一は、別に特別に成績が良いわけではない。ただし、平均点より多少前後するだけであって無能的阿呆ではないつもりだ。優子がどれだけの学力の持ち主かは知らないが、それでもある程度の点数は取っているのかも知れない。ないのかも知れない。
 だが「苛めに合う様な奴」と言うレッテルが付いている時点で、真一には優子に優位に立たれたり説教をされたり、優子が知っていたり気づいている様な事で諭される様な事だけは心の底から嫌だと思った。
「何がだよ!」
「このままだと、間に合わなくなるって事で。その時に後悔したって元になんか、何一つ戻らないって事がだよ!」
 悲痛そうな声は、さっきから何度も繰り出されている。その度に、どこか現実とかけ離されている様な気がする真一には、どこからどこまでを信じたら良いのか判らない。
 まるで、テレビの向こう側の世界を見ている様な気がするのに。紛れも無く、風に乗って届く「感覚」は本物だと告げているのが、ソレを信じてしまうのが、嫌だと感じた。
 それでは「現実」みたいではないか!
「わかんねえよっ!」
 叫んだ瞬間に、もう判っているのだと言う事実を自覚する。こんな風に彼女に叫んで見た所で、現在進行形で起きている現実の何一つも変わったりすることなどないのだと判っている。
 けれど。
「……そう、本当にいいんだね」
 何か、瞬間的に。
 真一は、理解する。自分が、何かとてつもなくひどく間違った事をしてしまったのだと言う事を。その選択を行えば、例えどんな幸福に包まれたとしても感情に浸りきる事など出来ないのだと、そう言う最悪な状況なのだと言う事を。