風は、どこから生まれるのだろう? 煽られるビル風の中、真一は半ばぼんやりとしながら天を仰ぐ。 出来た当初、どこかで誰かが「まるでバビロンの様だ」と言った事があって、別の誰かが「バベルじゃないのか?」と言った事があった。 どちらも、古代神話の時代に描かれた空中庭園や神の領域を目指して崩壊した塔の名前である事を、真一は知らない。 ただ、その言葉がいつまでも脳髄から離れてくれず。特に邪魔をするわけでも無い為に存在を容認してしまったに過ぎない事で、いっそ忘れてしまえば良かったのだろうか? 見回す周囲には、誰もが自分自身を見つめている様な気がして。同時にそんな事はないのだと、知らしめてくる。 都庁。 上空で北と南に別たれた帝都東京のシンボル的存在であり、観光名所でもあるソレ。 高さだけならば、隣県神奈川県横浜のランドマークタワーに負けているけれど価格の安さだけならば他の追随は許しはしないだろう。 「……どうしよう」 何かが、突き動かしてくる。 モタモタするな、とか。グズグズするな、とか。早く行け、とか好き勝手な事を。 けれど、思いつかないのだ。 あまり遠くに行きたいとは思っていない、また吐くかも知れないと言う恐れから乗り物に乗るのも却下だ。しかも、どうやら風の強く吹いている空間ではだいぶ肉体的に楽になると言う事実を知った。出来れば、もっと高い所のほうが精神的にも良さそうな気はするのだが、この近くでそんな高くて風の吹く場所なんて残念ながら想像もつかない。 こうしている間にも、何かが動いている筈だと言うのに。何かに置いてきぼりにされた様な空虚な感覚だけが、真一にはすがれる何かの様な気がしつつ。追い立ててくる感覚の存在は可能な限り無視したいと言うのが、どちらかと言えば本音かも知れない。 「どうしよう……」 危険な世界に身を投じる、と言うよりも引きずり込まれるのは。普通に生きて学校に行って、クラスメイトと楽しく過ごしたりゲームしたりする事よりも、遥かに「生きている」と言う実感を得られる。本当に嫌な事だったら恐らく兄と喧嘩してでも嫌がっただろうが、表向きの理由としては「兄に引きずり込まれたから」と言うものであって、決して自分から入り込みたかったなどと言うものではない。 ただ、それに拒否をしなかったのまた。事実なのだから、決してイヤだったわけではないのだと言えば間違いではない。 けれど、今。 「わかんねえ……」 こみ上げてくるものは、先程のものとは違った。喉の置くから湧き上がるのは同じだったけれど、それは口の中に広がったりするものではなくて、故に戸惑う。 けれど、同時に判っている事もあれば推測できる事もある。予測と言っても間違いではないだろうが、故に余計に悲しくなるのは否めないのは何故なのだろう? 「うるせえよ……いちいち」 答えた言葉がどこへ向けられているのか、その事実に現在。もっとも判っていないのは、真一なのだろうと言う事すら判らなかったが。 「俺だって、そこまで脳みそ止まってる訳じゃないし……大体、いきなり半年以上寝てたとか、兄貴が俺を捨石にしたとか、実は寝てた原因が半分以上死んでましたとかって、夏休みの怪奇現象スペシャルとかじゃあるまいし、そんなの……あるわけ……あるかも……」 認めたくはないのだが、世の中には己の認知する範囲だけでモノを語る事が出来ないなどと言う事は幾らでも存在してしまうの。 「うっせぇよ! 俺だって、もう何がなんだか……わけわかんねぇって!」 両手の拳を振り下ろすのと、何かが通り抜けたのは同じタイミングで。普段ならば気がつかなかっただろうそれに気がついてしまったのは、そこに注目をされると言う周囲の『目』があったからに他ならない。 言葉にはしないところで「何?」と問いかけて見た所で、その言語として外部に現れ出ずる事のないものへ返る答えなど普通はない。 「……おかしい? 何が?」 そう、普通ならば。 時間帯の関係から考えて、決して周囲には人が少ないと言い切るのは難しい。正確にはいつだってこの場には人があるけれど、誰一人として存在しないと言う事にはならないのだが、昼休みとかの時間帯に比べれば遥かに少ないのは幸いだったのか不幸だったのか。 「独り言って、俺は、お前……え?」 天を仰ぎ、見る。 夕暮れに染まる巨大な建物は、それを見る者によって印象を変えさせる事がある。 塔だというものもあれば、墓標だと言うものもある。実際には帝都東京の要であり役所が集中して存在している、庁であるに過ぎないのだが。 「誰と話してるんだっけ……」 現実逃避。 そんな単語が真一の中に存在しているのを、確かに感じて。一人でパフォーマンスを繰り広げている様にしか見えない真一の姿を横目で通り過ぎる人たちが居て、自覚した途端に恥ずかしさ指数が急上昇すると言うのは普通の話として存在する。 「よかねえよ」 口にしてみて、大分吐き気がおさまっているのを感じた。風が起きているおかげで、気分が楽になったのかも知れないと言うのと胃袋に何も残っていないからだろうと言う事から考えたのだが、胃袋にものが無くても肉体が要求すればないものを吐き出したい衝動に駆られるのは知っていたから。 その先の思考に関しては、無視した。 必要なのは、問題なのは、今は、そこではないのを知っているから。 「なんだか知らねぇけどさ、お前……何か知ってるんだろう?」 流石に周囲の目が集中してじろじろと見られるのは恥ずかしい……警備員がちらちらとこちらを見ている事もあって、無意味に愛想を振りまきたい衝動にかられるくらいだ。しかし、こちらが平静な状態を見せ付ければ一度や二度の奇異な事など東京の人は全く気にしないのだから、問題がありそうな気がすると同時に便利だと思う。 故の矛盾を、意識や視界から押し出す人々のおかげで存在出来るのだと思うと同時に。稀に心の中で「大丈夫なんだろうか?」と言う気がしないでもない事もあるのは事実だ。 「兄貴のこともだけど、桜とか言う奴の事もだけど、山中とかきゃおりとか言う奴の事とか、それに……」 名前と言うのは、不思議なものだと実感。 何も思っていない相手の事を口にするのは本当にどうでもよく感じるのに。某か思う所のある相手の名前を口にするのは、何故かためらいが生じる。 それは、恋愛とか喜びとかだけではなくて。疑問とか哀れみとか憎しみでもそうで。 ただ、一番を占めているのは「謎」で。 「うるせぇ、黙れ」 声は流石に抑える事にしたけれど、その言葉の中に含まれる感情は反比例する様に強くこめられている事に満足した。 「吐け、お前が知ってる事。その全部」 何があったのかと聞かれたら、真一は迷わずに言おうと思っている言葉がある。 『切れた』 恐らく、それが今の心情には最も相応しいのだろうと自分自身でも納得して、少しだけではあるがすっきりした。 「うるせぇってんだろ、義務教育なめてんじゃねえぞコラ……」 時間が無かっただろう事は、実は想像すれば幾らでも判ると判断出来たのは確かだ。 誰にだって、それぞれの生活がある。 追う者にもあれば、追われる者にだって。 たまたま、真一は今回に限って追われてるという立場になっているだけで。実は追う側に立ったことだって何度もあって、それをやりたかったのかどうかと聞かれたら「さあ?」と言う程度にはさらっと流せるだけの自信がある。 けれど、もう限界なのも確かだった。 半年以上と言う時間が、決して短いものだとは思わない。その間を無自覚とは言え、ずっと怠惰に過ごしてきたと言うのを差し引いても……否、それをどう判断したとしても状況の説明を求める事くらいは普通にある。筈だと思っているのに、真一はまだ成人から程遠い義務教育なのだと言う事も全部ひっくるめて、自分自身を殺そうとしながら目からしておかしくなっている実兄と。連絡を付ける前にどうにかこうにかなってしまった母と、突然現れて拉致同然にした桜忍と。その主だと判断出来る言動をしながらも、中学校ではいじめの対象者である神河優子と。 誰もが、何かを説明出来るはずなのに「苛めか?」と疑いたくなるほどのタイミングと意地の悪さを持って何一つ説明してくれないと言う現実に、そろそろ我慢も限界と言う所なのは。単に半日ほど前に泥のように休んだ上に風呂も入ってさっぱりして、新しい服に満腹な状態にまでなったりしたと言う事実があったりする。 「どいつもこいつも……ガキだからってナメやがって……」 そう言えば、そのうちの二人に関しては確か同じ年齢だった様な気もするのだが。それでも、あの二人からしてみたら態度は違えどやっている事は、やはりナメて居ると言う態度だと言って差し支えないのだろうという気はした。 「特に……あのアマには色々と……うるせぇな、なんでそんな事を……あぁっ?」 どこか、斜め先の地面に向かって目つきが悪くなるのは判ったのだけれど。周囲の人達の視線がいささか温度を低くさせながら、それでも係わり合いになるのを怖がる都会独特の空気のおかげでこちらをあからさまに不審尋問すると言う方向性に出られなかったのは、もしかして私服だけの姿とは言いながらも上に羽織ったままでいるアーミーコートのおかげだろうか? と言う気もしないでもない。 無論、外見からするとなんとなくでも何でもなくボロボロになってしまっているのが。思い切りこの後のことを考えると頭痛がしてしまうと言うものではあるのだが……そのことについては、今すぐ考えない方が精神安定上では平和だろう事くらい知っていたから。 「やかましぃ、ちったぁ黙れ!」 イラつくのは、求めている全てが叶えられていないからだと思う。 空腹とか、寝不足とか、そう言う点では何とか必要最低限にかなえて貰ったけれど。半年以上も眠っていたのに、それでもまだ眠っていられたと言う事実も理不尽だと思うけれど。 それでも。 |