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 何をどうしたら一番良いのかとか、そう言うことは一切考えなかった。
 ただ、どこかから何かが導き出されるものもあるのだろうと、そう思うしかなかった。
「あんた、一体あの子に何をしたのよ?」
 電話に出た人物が、最初に言ったのは一言一句間違いなくその台詞だった。
 尾崎真一と言う人生の中で、一度もかすりもしない名前と人生を過ごしている女。
 それが「山中 香」と言う名前の、同じ学年の女子中学生である事を知った。
『あの子って……』
 想像がついたのは、桜忍と神河優子の二人ではあるが、どう贔屓目に見ても忍を「あの子」と分類するのは無理だろうと判断した。
「一体、あの子に何をしたの? って言うか、させたわけ? この調子じゃ、世界中から音と言う音が消えてることになるじゃない」
 電話の受話器から聞こえて来たのは、音の様で居て音ではない事は知っていた。だけど、間に何か無機物を通す事によって耳が消えたはずの「音」として脳に伝えているのだろうというのが、彼女の見解だった。
『あんた、何をどこまで知ってる?』
「桜君から事情は聞いてるわ、それに……貴方はきっと覚えてない事も私は知っている。
 まあ、あの子に口止めされてるから私の口から言えるのはそこまでだけど……貴方は今、何を欲しがっているの?」
 悔しい事に、香と言う女子生徒のひどく冷静な声は真一を苛立ちと冷静の間を行ったりきたりさせるのに十分だった。
 何やら、感情を弄ばれている様な気分にさせれられている気がしてならない。理不尽だとは思うが、電話の調子からもわかる様にえらく脳みその作りが良いらしく思ったので、これには理由があるのだろうと思い込む事にしてみたら、それまでよりは怒りが収まった。
「大体、この私に対してそんな尊大な口を利いておいて。ただで何かしてもらえると思う方が間違いよ、改めなさい」
 真一の希望を伝えて見て、返って来た返事がこれなのだから真一は怒りより呆れた。
 聞いてみれば、このでかい態度で同じ年齢で優子とは知り合いで。おまけに同じ塾に通っているのだそうだ、世の中は計り知れない。「うん、だって私。天才だし」
 ここまでの台詞をはっきり言える人と言うのは、真一の人生で始めて知り合った。
「貴方、まずはお兄さんをどうにかこうにかよりも先に決める事があるんじゃない?
 例えば、私はあの子を叱り付ける為に側にいるの。そうしないと、あの子は何でもかんでも全部背負おうとして、勝手に自滅するの。
 冗談じゃないわ、勝手にこんな事に巻き込んで置いて。幾ら本意じゃないとは言っても、それなら責任とってきっちり面倒見てもらおうじゃない、ってね。
 それが、私のあの子と一緒に居る理由よ」
『なにそれ、なんで兄貴の事よりも先にそんな事いわれないといけないわけ?』
「そんなの決まってるわよ、あんたが。尾崎君だっけ? お兄さんとのケリを付けるのには、私や田中君の時とは状況が違うの。
 きっと、桜君の時みたいな事になるでしょうね。でも、その後で貴方はどうするつもりなのか、それがまず決まらなくちゃ」
 だって、もしも貴方が傷ついたら。きっとあの子は泣く事になるわ、そうしたら思いっきりあの子の事を叱ってやれないじゃない?
 思い切り自分本位な台詞を聞いたような気はしたのだが……何となく、それは間違いではないのだろうという気がした。
 間違いと言うのが、一体何なのかは判らないけれど。間違えても、あの様子では「刺し違えてでも」などと言う言動に出たら問答無用で泣きながら怒られそうな気がして。
 それは、とても嬉しい気がした。
「ちょっと、何を幸せそうな気分に浸ってるか知らないけど。そろそろカードの度数が切れるわよ?」
 見ると、確かにカードは切れそうだ。携帯電話にかけた番号だった事もあって、テレフォンカード一枚程度ではすぐに通話が出来なくなってしまう。
『あのさ、人のモノローグに派手に無関係なツッコミ入れないでくれる?』
 幸せそうな気分、と言うあたりで無意味に周囲をひっそりと確認してしまいたくなる。
「じゃあ、そんな尾崎クンの為に一つだけ良い事を教えてあげるわ。
 あなた、風の強く吹くところに行きなさい。
 ビルの谷間でも良いし、高いところでも良い。まあ、そこから逃げ出すって言うのも一つの手なんでしょうけど、あの子は『その後』の事についてまでは考えてないと思うから。そうしたら、とりあえず延々と今の状況が続くって事だけは忘れないでね?」
 まるで、それは計算されているのだろうかと言う気がした。自称、天才少女ならばそれも可能かも知れないと言う気がしたが、まるで電話機は香の言いたい事を全て言い尽くすまで回線をつなげていただけだと言うそ知らぬ顔をして。そのまま、物音一つしなくなった為に、真一は呆然としかけて。気づいた。
「音、が……」
 戻って、いた。
 ざわめく人の声、それに伴う雑音。普段は決して気にすることのない、ともすれば心地よささえ覚える雑踏の中が戻ってきたと言うのに、それは「気にしないからこその心地よさ」を与えていたのだと、真一は気がついた。
「吐くかも……」
 良い空気を求めて地上に躍り出てみれば、まるで酔っ払いの様な真一の姿は通り過ぎる人が僅かに目を向けて背けたくなる様な形相らしく。
「カッコ悪い……」
 車。
 靴の、歩く音。
 人の声、ざわめき、服のこすれる。
 気にしない、気にならずに居られた音の群れは、まるで嘲り笑う様に真一の神経を刺激している事へ恐怖を覚えた。
 何が起きているのかなんて、そんな事は判らない。真一の中では昨夜から、世間的には半年以上前から。
 決して、仲の良い家族だったとは思わない。母親は真一や正和の事もあって働いて、それが夜の仕事だからなのか正和は気に食わなくて反抗しているのだと母親は言っていた事があった。それが事実かどうかは判らないけれど、母親よりも長い時間を兄と過ごしていれば兄の世界に弟が引きずり込まれるのは至極当然の事で。その手伝いをすれば、幾ばくかの子供には過ぎたお金が手に入ってしまうからだから……。
「う……ぐっ……」
 拒絶されている、それは意思だ。
 誰の意思かなんて、そんな事はわからない。
 どうして、今すぐ倒れてしまわないのか。母親を、弟を殺そうと躍起になって探している兄の所へ行こうともしないで、逃げ出す事もなくて、こんな所でどこに向かっているのかも判らなくて、それでもどこかへ向かおうとしている自分自身があって。
『逃げて』
 そう言って、こちらを向かなかった少女のせいだという気が。する。
 こちらを向いている余裕が無かったからだ、と言うのは判る。すでに冷静な思考すらあるかどうか判らない兄を、どうやって無関係なクラスメイトが抑えるつもりなのかは正直言って判らない。
 ただ、真一が直接正面から乗り出すよりも。遥かにまだ、マシな気がしたと言うのだけは事実だったし現実だった。
 この、こみ上げてくる吐き気と同じくらい。認めたくなくても、押し寄せてくる波の様に巻き込んでくる、現実だった。
『僕はイヤだ』
 子供の理論だと、即座に思った。
 自分がイヤだから回避させて、その為に努力を惜しまないなんて言うのは世間知らずの。馬鹿な子供の、身勝手な理論で。
 けれど、同時に思った事を認める。
 嬉しいのだ、と。
「ぐぅ……う……」
 手を口で押さえても、どうにもならないくらい押し寄せてこみ上げてくる。胃袋の中身が体の中から「出せ!」と命じているかのごとく……そんな事はないのだと、判っているのに逆らうのは難しい。コートのポケットの中を探ると、ハンドタオルが入っていたのにありがたく使わせてもらう。
 近くに公衆トイレを見つけ、そこが中央公園である事をみとめて、入り込み。そして、体の中で暴れまくっている異物を全て吐き出し、顔を洗う頃には何とか落ち着きを取り戻していた。
「う……げぇ……」
 思ったよりも、吐しゃ物が少なかった事は幸いで。朝に他人のおごりだと思って胃袋がはちきれるかと思うほど詰め込んだ割には大惨事と言うわけではないのは、恐らく今がすでに夕方になっているからだろう。洗面所で洗ったタオルの臭いをかいでも胃液臭くないことに安堵をしつつ、これを再びポケットに戻すのも忍びなさを覚え。
 ついでに、この公園では僅かに強い風が吹いている事に、気づいた。
「ああ……勿体無い……」
 普段はそうでもないけれど、たまに口に出来る豪華なホテルの朝食を味わったのに。栄養価になる前に外に出すのは勿体無いと言うべきなのだろう、別に他人のおごりだから構わないと言う気持ちもあるけれど。比率的には折半と言うのが妥当だろうと思って、それはそれとして考えるべき事がある。
「口ん中まず……」
 何度も洗面所の水で口をすすぐけれど、その水は決して美味だと言うべきレベルの物体ではない。まるで、鉄の混じったさびた水を飲んでる様な気がしてくるのは嫌な感じだ。
 けれど、今ここでミネラル・ウォーターなどを望む事も出来るわけもなく。
「う……力入らねぇ……」
 だけど、押し寄せてくるものがあるのを。
 真一の中に、ある何かが告げていた。
 否、それは本当はどこにあったのだろう?
 体の中なのか、それとも外にあったのか。
 それとも、生まれたのか以前からあったのかは、本当の所は判らない。
 ただ、世間では「ガキ」と言われてもどうしようもない時間しか生きていなくても、どうしようもなく判る事はある。涙を流してもどうにもならない、避けたくても避けられない、そんなものがあるのを知っている。
 年齢でも、時間でも、育った環境とか食べているものとか、どこで生きているかとか、そう言う事は関係ない。
 ただ、何かに命じられるかの様に追い立てられる様に。波に飲み込まれる様に、抗えない何かがが真一を追い立てる。
 行け。
 ただ一言が、今の真一を突き動かしていた。