何が消えたのか、その瞬間には判らなかった。けれど、何かが消えたのが判って、ふと周囲を見回せば他の人達も何か違和感を感じながらも微妙な笑みを浮かべながら歩いて。 物陰からのぞいてみれば、しまった顔をしている優子と。焦った様子の忍と、何かとんでもない状況に陥れられて混乱している正和の姿が見えて。 『……なに、これ?』 急速に暗闇に包まれる、太陽が姿を隠す。 都心の歓楽街、その中にあって駅に近いともなれば道行く人々は陽気に笑い、陰鬱に歩き、そしてすれ違って関わって、別れる。 そんな、町で。 『何が、声が……』 呟きが、言葉が、音として耳に捉えられていない事が判ってしまった。 『音?』 消えて、しまっていた。 町中から、音が。 「ごめんなさい……」 突然、いきなり町中から音が消えていた。 全ての音がいきなり消えたから、同時に消えてしまったから、人々は気がつかないのだ。 そして、人々は消えた音の代わりとなるものを同時に感覚として鋭敏にさせているせいで。無意識の行動のせいで、若干の違和感を感じたままでも平然としていようと思える。 自分だけが、変わったわけでは無かったからだと。もしかしたら、気づいているのか? 世界の全てが、同時に代わってしまったからだと判っているが故の。行動? 「ごめんなさい、ごめんなさい……」 その中にあって、たった一人の「声」が声として「音」として認識出来た。 「こんな、つもりじゃ無かった……したかったわけじゃ、なくて……ごめ……」 泣きじゃくるのは、神河優子だった。 なんだそれは? 沸き起こる疑問に、泣きじゃくる優子に、慰めの言葉も手も、貸すものは誰も居なかった。あの忍ですらも、隣で泣いている優子を見つめているだけで手も言葉も貸そうとはしなくて、少し困っている様な、それでいて嬉しそうな、妙に判断のつかない表情を僅かにしているのだと気がつくのは。 少なくとも、今すぐではないと言う事。 『優子様、危険です。この場は「彼」に任せるのが得策かと……』 あまりにも現実的な声ならぬ声は、もしかして優子を「慰める」と言う行為を後回しにした結果に過ぎなかったのだろう。 突如として起こった、一体どこからどこまでに起きたのか判らない現象は尾崎正和と言う人物の神経に何らかの作用を起こさせるのに十分だったと言う事なのだろう。 『お前さえ……お前さえ生まれてこなければ、そうすれば!』 今度は、真一の危険警報は「逃げろ」と告げている様な気がしたので素直に従った。 そう言えば、この危険に対する神経に逆らうと本当にろくな事が起きなかったものだと妙に感慨深く思い出していた。 『どういう事なんだよ、兄貴!』 何故なら、それがあの事件の始まりだったからだと言うのもある。 『お前が生まれてきたから、俺は……!』 結果として、今こうして実の兄にどう言う事なのかひたすら説明を求めたい事実にたどり着き。そして、妙な事にひどく冷静に物事を見つめられている自分自身を発見した。 『あの女も、あの男も、老人達ですら……』 常軌を逸脱した人物の顔と言うのは、ああいうものなのだろうという気がした。 背後を気にしいしい走るのはかなり問題があるとは思うが、ピストルの弾など改造した所でオートマティックでも一6発が限度だという事も知っている。リボルバーなら5発が限度で、残念な事に正和が持っているのはオートマティックではあるものの、逃げようと思って逃げ切れないというほどでもない。 『あ、やべっ……』 ちゅいんちゅいんと言う軽い音がしている所、何発かは借りた深緑色のコートにかすったのが判ったし。その弾は当然の事ながら真一を追い越して明後日の方向に向かって行き、今のところはまだ大丈夫な様ではあるが公共機関の人に知られたら問題が大きくなるのはどう見ても間違いがない事だった。 『借り物のコートに、穴なんて開けるなよ!』 自分では叫びながら走っているつもりだが、相手に聞こえているかどうかは関係ない。どうせ、世界から「音」が消えてしまっているのだから気にするだけ無駄と言うものだ。 それに、どうやら「音」は消えても代わりとなっている器官が同じような認識をしているらしい。いつまで続くか判らないけれど、これが死ぬまで続くと言う事もないだろうと言う気がしていた。 『あ、けど……困ったなあ』 コートと言う視点の定まらぬ曖昧な空間が、正和の狙いを外させているのだろうと言う事は判ったけれど。時折、ちらりと見るにつけ「正気の顔じゃねえなあ、あれ」とか思っている時点で、なんだかもう兄とか弟とか家族とか血縁とか、これまでの時間とか歴史とか、そう言ったものがどんどんどうでも良くなって来た様な気がして、いた。 「尾崎君、こっち!」 先回りをどうやってしたのかと言えば、どう見ても側に居る忍の乗っていたらしいバイクの姿を見れば判ると言うもの。 しかし……真一はとりたてて「おいおい、一四歳だろう、お前は」とかは思わなかった。 「公園の中なら、少しはやり過ごせると思うから……早く。言って」 コートを脱いで制服とマフラーと手袋だけの姿になっても、とりたてて代わり映えがしていると言うわけではない。 ただ、先程よりも泣いてい無いと言うだけ。 『神河は……』 何が言いたいのか、正直な所を言えば真一にも判らなかった。口にしてみただけで、これと言って何か言いたい事があるわけでもなかったからだと言う事に言って見てから気がついたくらいで。 『ご心配なく、優子様には私がついてます』 気分的には「ああ、そうですか」と言うものではあったが、優子と忍の姿を認めた正和が足を止めて迷っているそぶりを見せている為にすぐに何かをどうこうしようと言う感じではない様だ。 「説得……して、みる。から」 聞きたい事ならば、それこそ山のようにはあるけれど……しかし、今は身の安全の確保が先だと言う事。真一よりは優子の方が余程あらゆる意味で安全だと言うのが判っている。 『判った』 任せるのに不安がないとは言わないけれど、時間稼ぎくらいは出来るだろうと思う。側には忍だっているわけだし、万が一にも忍が一緒にいて優子が危険な目に合いそうになったらバイクで逃げ出せば良い。今の真一みたいに、ひたすら馬鹿正直に二本の足で走って逃げるだけでは脳が無いにもこの上無い。 とは言うものの、残念ながら真一にはどこへ行けば良いのかとか。どう対処すれば良いのかとか、そう言うことは全く思い当たらないという困った現実があった。 面白いのか面白くないのか不明だが、真一にはここで「女に助けられる」と言う事に対してのわだかまりは一切ない。と言うよりも「音」が一切なくなっている世界なのに、周囲の人達は多少の違和感以外を全く感じずに普通に生活をしていると言う事実の方が驚き度としては高い。 まあ、当然かも知れないのだが。 『困ったなあ……隠れるくらいしか手が……』 状況を誰かに説明されたいとは思っても、ゲームの世界ではあるまいし通りすがりの人が何を知っていると言うわけでもない。 では、通りすがりでないとしたら? 真一は、おもむろにポケットを探りだした。 周囲の人は、ちらりと真一を見る事はあってもそのまま通り過ぎてくれるのがありがたいと思った。はっきり言って、警察署が近くにあるからと言うのもあるのだろうが不審尋問をされたとしても、あまり効果的な言い訳は思いつかないくらいの不審な行動である事に違いはないからだ。 『あった……』 突如として、真一は周囲を見回す。見ると、地下鉄の入り口が見えたので慌てて駆け込んで見るものの、馴染みがない駅なのできょろきょろと見回す姿は更に怪しい人物に見えるだろう。 『もしもし』 真一が探していたのは、財布の中にあった小銭ではあったが。何故かカード入れの中にはテレフォンカードがあった。電車の電子マネーカードもあったし、コンビニで使えるマネーカードもあった。ついでに、現金もかなりたっぷりと入っているのを最初に見たときは忍の神経をずいぶんと疑ったものだ。 偽札かも知れないとは思ったが、偽札に関しては多少の知識がある。この出来合いを疑うのならば新札を疑うほうが遥かに神経に優しいだろうと判断して、用意してくれたのだから使ってやろう程度の事を考えた。 『俺、尾崎真一』 流石に忍も、用意した着替えの中に財布やら電子マネーカードやらは用意したものの。携帯電話の用意はしてくれず、かと言って中には自分自身の携帯電話どころか着替えの一枚も持ち出せなかったのだからどうしようもない。 『余計な事はどうでもいいから、教えろ』 |