ぴくり。
 優子の体が僅かに反応した直後に忍が「来たようですね……」と呟き、やや遅れて真一も何か違和感を感じた。
「と、とにかく!
 僕は僕の意思で、そんな事させないからね。
 忍だって、そんな事しちゃダメなんだからさ。判ってるよね!」
 急に早口になったあげく、そんな事を指差して宣言する優子を見て僅かに。ほんの僅かではあったが、真一は違和感が強くなった気がしていた。
「優子様のご命令でしたら、私は何も。これ以上手出しをするつもりはありませんが……」
「よし、言質とったからね。忍とか、きゃおりとかは、もうどうしようもないけど、田中君なんかも言っても聞かないからアレだけど。
 まだ、尾崎君は間に合うんだから……だから、早く乗って逃げて。あそこ停留所だから」
 優子への違和感は、忍にも判ったのだろう。何かを焦っている様子の優子に何か言いたいことがある様だが、優子が何気に忍を威嚇している姿が判ったので口をつぐまざるを得ない様なのだ。
「だから、お願い。
 とっとと居なくなって、ここから消えて」
 真一は、どんな気持ちで優子がその言葉を口にしたのかが判らないし。その優子を見つめる忍の表情からも気持ちを読み取る事が出来なくて、困る。
「けど……説明は?」
「世界が終わる頃に、教えて差し上げますよ」
 まるで、説明する気など全くないと言っている様な気がして真一はカチンと来る。
 今の今までは色々な意味で抑えていたのだからともかく、実は根っこのところでの真一と言うのはとてつもなく喧嘩っ早い。
「ちょ……忍! 尾崎君も、そんな台詞に乗らなくていいから!」
 同じ学校に通っていたこともあって、優子もある程度は尾崎真一と言う人物の噂を聞いたことがあるのだろう。
 実際、優子は知ってるだけで一年生の頃のおふざけによるガラスに頭からツッコミ事件やら。二年の転入生との乱闘鼻血事件も、三年生になってすぐの頃にあった教師との照明器具破壊事件の事も知っていた。特に、二年生と三年生の頃はその現場に居合わせたし、三年の時は目の前で始まりから終わりまでばっちり見ていたので知らないはずもなかった。
「つーか、二人まとめてとっとと吐け!」
「一気にガラ悪くならないでよお……」
 頭を抱えて「忍の馬鹿ぁっ!」とは叫んでいる優子ではあったが「手出しはしないと申し上げましたが、口は出さないとは言っておりませんので」とか何とか、子供の喧嘩の様な事を言っている。
「馬鹿にしてるのか、お前ら!」
「忍と一緒にしないでくれるぅっ!」
 頭を抱えたままでも、しっかりと否定するべき事はして置きたいらしい。
 と言うより、この二人の関係は当初から見るとかなり微妙な判断を要求されている様な気がしてならない。
「馬鹿になどはしておりませんよ、尾崎真一と言う人物に感情を抱く必要はありません」
「言ってる意味わかんないって……えっと、事情に関してはまた後日改めて説明……って、そんなあ!」
 優子の悲鳴と、忍が飛び込んでくるのと、破砕音と共に周囲が間をもってざわめいたのは、そんな時だった。
「尾崎君!」
 優子の声があがったのは、忍に抱きかかえられる様にして避けたと思われ。地面に転がってから落ち着いた、その後だった。
「な……」
 身体には当たっていない筈だと判っているのに、何かが。体の中をすり抜けたかの様な、そんな感じがして。
「決着は、自分で付けてください。尾崎君」
 優子の身体を支えながら、すでに片足をついて起き上がっていた忍の眼差しは……鋭い。
「優子様の御手を煩わせる様な、無様な真似だけは止めていただきます」
「忍、そんな事いってる場合じゃ……!」
 時間がないのだと、二人は告げていた。
 その意味を、真一は今まで考えていなかった自分自身を恨んだ。その、本当の意味を。隠された意味を、どうして優子がはっきりとそれを口にしなかったのかを。
 きっと、知っていただろうに。
「やあっと見つけた……」
「兄貴……」
 手にしたピストルは、昨夜のものと同じなのだろうか? こんな街中で、しかも実の弟を相手に。他人も居る所で向けるなんて、少なくとも真一の知っている限りそんな愚かな男ではなかった筈なのに。
「尾崎君!」
 力強いわけでもない優子から投げられたのは、つい今まで羽織っていたコートだ。裏地もなく薄手ではあるが、丈夫だという点では定評のある軍事用コートだ。
「止めてよ、貴方は尾崎君のお兄さんなんでしょう。どうしてこんな事するの!」
 音響の響く中、通常の神経ならば無駄だと思われる中で放たれた言葉は。意外な効果を呼び起こす事もあるのだと、状況を理解出来る者は思った。
「血の繋がりよりも……大切なものがある」
 突風。
 強い風は周囲の人々を巻き込み、なぎ払おうとしている。視界の隅に目を凝らせば、何が起こるのか何となく想像をしていたらしい忍、優子、真一が目の前へ手をかざしてなんとか身の安全を図ろうと努力している事が判っただろう。しかも、その元凶である筈の。通常ならばその思考に至る事はなく自然現象の一言で済まされるだろう只中にあって平然としている尾崎正和の姿を見る事が出来ただろう。
「何をぐずぐずしているのです、これ以上。優子様を巻き込むつもりですか!」
 強風のせいで物音もまともに聞こえない筈なのに、やけに明確に聞こえたのは忍の声だ。どちらかと言えば、それは耳で捕らえた音ではないのかもしれないと思うほどにクリアだ。「く……っ!」
 何とか目を向ければ、優子は忍に庇われているものの肉体的にも精神的にも結構なダメージを追っている様子が判る。
「戦え、それが運命だ……」
 にやりと、顔の作りと言うよりも雰囲気の似ている血を分けた存在が笑った様な気がしたけれど。きちんと肉眼で見た気はしなくて、それ以上に今。何が起きているのかちゃんと判る事は出来なくて、したくなくて。
「逃げるか!」
「逃げるに決まってんだろ!」
「ダメ!」
 強風を背に、その力を借りて逃亡を図ろうとした真一と。
 その真一が逃げるのを判って、後を追おうとした正和と。
 逃げる真一を追おうとした正和の前に、それを押し留める為に飛び出した優子が。僅かな隙ではあったが、ほぼ三人同時に動いた。
「優子様、危険です!」
「どけ……お前に用はない……」
 荷物を地面に捨てて、仁王立ちになって正和を正面から見据える姿は滑稽と言えるだろう。
「君には無くても、僕にはあるよ。
 尾崎君に何をするつもり……何をしようって言うの!」
 美人ではない、頭が良いわけでもなければスポーツが万能だというわけでもない。肥満の域に達している、単なる女子中学生。
 対するは、見かけからすると安物仕立てではあるがれっきとした暴力団組合の多少は上のクラスに入ったチンピラから脱却し切れていない成人男性。しかも、手にはピストルのオマケと今は何か薬物中毒患者の様な説明しがたい表情で実の弟を殺そうと躍起になっていると言う有様だ。
「優子様、なりません……」
「忍は黙ってて!
 兄弟なんだよ、家族なんだよ。実の、血のつながりがあるんだよ、それなのにこんな事……ダメだよ、僕は嫌だよ!」
 いかに忍が護衛をしようとしても、優子は決然と言い放つ。ただ、その理由は子供の理論を振りかざすだけではあるが常識的だ。
 他人の家庭のことに首を突っ込むのもどうかと言う話もあるが、だからと言って性格なのかどうなのか。警察に任せると言う選択がないのは、この状況がいかに常識で計り知れないかを昨夜からの。否、半年以上も前の事から遡って鑑みるに想像するなと言われても無理な話だという事が判った。
「0か1しかないのです!」
 忍の声もまた、逼迫していた。
 それは、まるで……己が通ってきた道だと言わんばかりの痛みを。伴っていた。
「そんな事ない!」
 子供は、希望を常に持っている。
 どんなに世を儚んでいても、そこにかすかな希望を持っている。その僅かな光に、すがろうとしてしまう。
 下手に知識や人生経験を重ねてしまうのは、そう言う意味から言えば不幸なのかも知れない。出来る事と出来ない事を、判断出来てしまうのだから。
「退け……」
「イヤ」
「何故、貴方が邪魔をする……」
 真一は、走って逃げようと思っていたけれど下手に動くと危険な気がした。自分自身がと言うのもあるのだが、その周囲にとんでもない被害が出る様な気がして。そんな事はある筈ないと言う気持ちとがぐるぐると心の中で渦を巻いていた。
 危機意識と呼ばれるソレは、真一の為に最大限の警報をなり続けている為に。下手に逃げ出そうと言う気になれず、板ばさみだった。
「それはね、お兄さん……『僕がイヤだから』だよ。兄弟で、こんなつまらない事で争うなんて馬鹿馬鹿しいんだって、言いたいから」
 一体、この半年の間に何が起きて何が変わって、何が消えて行ったんだろう?
 考えてもどうしようもない気がしたけれど、切実に真一は思っていた。
「馬鹿な……それを、つまらない事だと貴方が言うのか?」
 正和は、もしかしたら優子を知っているのだろうか? 何やら、真一に対する態度の時とは違って多少なりとも敬意を払っている様に見えなくもない。
「そうだよ、忍もお兄さんもそう言う事を言うなら。僕は何度だって『つまらない事』だって言うよ、きゃおりだって、田中君だって、皆して人の事ばっかり無視して、そんな事。一体、いつ、どこで誰が頼んだんだよ!」
 何やら、周囲に対して不満と言うか鬱屈としたものが溜まってるみたいだな。とか言う感想をもしも持っていたとしたら、それは後になってかなり平和になって、悩み事を聞かれたら「夕飯何にしよう?」と言う程度の事くらいしか、考えられなくなる様な。
 そんな頃だったのかも、知れない。
「人の意見無視する様な奴らに、何だって……なんだって……いい加減にしてよおっ!」
 ふと。
 何かが消えた様な気が、した。