事故だと世間の人達は言いつつ、それがあるはずもない事を誰もが知っていた。
 ある、暴力団関係者の高速道路での出来事。
 炎上する車、単車、倒れる人々。
 唯一重体だと判断されたのは奇跡的に生きているだけの状態の少年で、彼は病院に搬送された。
 他の人物達は、重軽傷と言う所ではあったが。事故が原因なのか、それとも別の理由からなのか判断のつかない死に方を暫くしてからする事になる。
 唯一、重体だと判断されて生き残ってしまった少年は。それから警察によって尋問される筈だったが、その少年の意識は一向に取り戻す気配もなく、事件は頓挫した状態だった。
「本当は、いつ目が覚めてもおかしくなかったんだって。だけど、ずっと目がさめないから、このまま死んでもおかしくないって……おばさん、ずっと治療費払う為に頑張ってた」
 一度だけ見た記憶のある女性は、それから寝る間も惜しんで働き続けていたらしい。
 生命維持装置と言うのは、それだけとても高価な維持費がかかる。本当は生命維持装置が必要だったのかどうかは判らないのだが、それは知らない世界の話にしておけば良いのだろう。
「それで……それから暫くして、学校でもあんまり良い噂が流れなかった。
 尾崎君の、お兄さん?」
「正和のこと?」
 少なくとも、そうやってがむしゃらに働いている間の母親は何かを考える余裕などなかったのだから。それはある意味で幸せなのだ。
「その人、が……なんかしたから事故に巻き込まれたんだって話が、あって」
 どうして一般的公立中学でそんな話が流れたのかよく判らないのだが、実際に狙われたのだから話には信憑性がありすぎる。
「もしかして、言葉とか選んでたりする?」
 ぴたり、と歩みが止まって。
 理解する。
 ああ、神河優子は知っているのだ。
「……ごめん」
 うつむいた優子から出た言葉はそれだけで、真一は、優子が見ていないのを良い事に笑いそうになった。シニカルで人を馬鹿にした笑みとか演技とかではなくて、まるで子供を見る大人の様な笑みだ。
「なんで謝るわけ?」
「……だって、知りすぎだと思うし」
「調べたんだ?」
「……違うし」
 何か、言葉尻を選びながら言う理由は何なのだろう? その疑問について考える前に、再び優子は歩みを始めた。
「じゃあ、いいんじゃないの?」
 毅然と上げかけた顔は、何かを決意する顔だ。そんじょそこいらの普通の女子中学生が、簡単に出来る顔でないと言う事だけは確かで。
「よくない、今すぐ君が逃げ出さないくらい。
 それは、とてもよくない事なんだ」
 何かを見つけたのか、優子のぴりぴり度合いが急激に膨らんだ。様に見えた。
「それって、どういう理由で?」
「それは……」
 決断を迷う、それは仕草だ。
 状況を理解しようとしたところで、周囲の動きを期待するのは無理と言うものなのは困った所だ。何しろ、どう見ても一般市民レベルで今の状況を打破出来る人物など求むべきではなく……そう言えば、この状況を打破出来る筈の唯一の人物を放っておいてこのまま優子に着いてきて良いのかどうか始めて真一の中で計算的迷いが生じる。
「それは、君が君のままで生きて、死ぬ為」
 優子が何を迷っているのか、状況が理解出来ない真一には当然判らないからだ。
「おい……」
「世の中にはね」
 その是非について問いかけるのならば、そのものを理解しなくては出来ないに決まっているのだから当然の話だ。
「世界には、生きているよりも死ぬ事より。もっともっと、辛くて悲しい事があるんだよ。
 僕は、出来たらそんな事に君を巻き込みたくないんだ。そう、心から願っているんだ。
 これ以上、あんな事に関わる人物を増やしたくない。しかも、それが過去に関わった事のある人だなんて嫌だ」
 その顔と声は、涙こそ流していないけれど見覚えがあった。
 いつか居た、あれは学校。
 いつか見た、それは放課後。
 いつか聞いた、その人物。
 それは、二人。
「桜……忍……?」
 はまったパズルを祝福する様に、一陣の風が吹いた。
 その風を孕んで、神河優子のコートが裾を翻しながら振り向く。
「俺は……」
 何に巻き込まれているんだ?
 言葉は、続かない。
「長距離バスに乗って、どこでも行って。電車でも良いんだけど、途中で止めさせられたら日本中と言う規模で迷惑かかるし」
 車一台分ならば、止められたとしてもまだ被害は少ないからだと言う。
「本当は、日本から。地球から出た方がいいんだけど……でも、そう言うわけにもいかないから。あいつも見張ってるし」
 あいつ。
 そう言って、優子は天を仰ぐ。
 ビルの隙間から覗く空は夏よりも薄く、遥かに高い青を映し出している。
 仇敵でもいるのか、それとも友でもあるのか、心境としては「複雑」と語っている様にも見えるのが不思議だった。
「気は、済まれましたか?」
 不意に聞こえた声に、真一は驚いたけれどそうは見えない程度の速度でそちらを見て。
 優子は、最初から気がついていたみたいだ。
「何とおっしゃられようと、私の決意は変わりません。例え、優子様の信頼を失う事があるとしてもです」
 一四歳と言えば、世間ではとりあえず「子供」の部類として分類される年齢だ。真一は知らないけれど、自分自身と大差ない年齢だろうと忍を判断する。しかし、それにしてはあまりにも世間の裏も表も知りすぎた老成した雰囲気をかもし出させている。
「戯れとでも……言うつもりか?」
 もっとも、その中に潜んでいるだろう色気らしいものに関しては何となくヤバそうな気がして考えたくない衝動にかられる。
「はい」
 低く響かせた、けれどそれまでとは全く違う口調に対して平然と答えている。様に見える忍の姿を見て、真一は判断に困る。
 忍の言っていた「真一に会いたがっている人物」と言うのは、恐らく神河優子であろう。
「よく、その様な事を……!」
 そして、その神河優子自身は自ら会いに来た上で必死の形相で言うのだ。
「優子様、抗う姿勢はお美しく思います。
 その高い矜持も、誇りも、故にこそ傍らにありたいと思い、ささやかな力となる事が可能であれば、その想いに賛同したく思います」
 真面目に聞いたら、普通は寒気が来るとか背中の毛が逆立つとか、とりあえず「どこのテレビだよ?」くらいの台詞くらいは出たかも知れない。
「忍!」
 駅に程近く、周囲を歩く人の姿もある。はっきり言わせて貰えれば、これがテレビの撮影とかで無ければ詐欺かびっくりか嘘としか言い様がないだろう。
「ですが、全てを背負われようとする事を私は良しとするわけには参りません」
 けれど、桜忍の言葉も表情も真剣そのもの。
 美しすぎる美貌と言う奴を、何かに堪える様でいて真剣な眼差しでこちらを。優子を見つめている姿に真一が視界に入っているかどうかすらよく判らないのは良いのか悪いのかかなり不明だ。
「やめてよ、そんなの誰も望んでないよ!」
「いいえ、私が望んでいます」
 とん、と真一の腕が叩かれた。
 強くはなく、どちらかと言えばこちらの存在を相手に認識させる程度のものだ。
「行って」
 声は短く、決然としたものだ。
 優子はどうやら、本気で桜忍とやりあおうと思っているらしい。
「おい、ちょっと待……」
「早く」
「お戯れは止めてください、彼を逃がしたところで何になると言うのですか?」
 懇願するかの様な表情一つで、通りを行く女性と言うより一部男性なんかも視線を寄越して来る姿は何と言うか……滑稽だ。
 しかし、誰よりも滑稽なのは。
「ちょっと待てよ、何を人の事放り出して勝手な会話とかしちゃうわけ?」
「時間がないんだよ!」
 一つ、判ったことがある。
 もしかしたら、忍は優子のこの「律儀に返事をする所」が気に入っている理由の一つなのではないだろうかと言う気がした。
「そうです、時間はありません。
 選別の時刻はすでに始まっております、故に私は優子様の安全を確保いたします」
「選別……?」
「忍、余計なことを……!」
 言われて欲しくない事だったのか、どちらにしても優子は某かを回避させようとして。忍は、それを真一に押し付けようとしている事だけは確かな様だ。
「それって、危険なこと……な、わけ?」
 生命をかけるほどの事など、はっきり言って真一には過去に数度くらいしか経験はない。
 出来れば、もう二度としなくても良いと思っているくらいではあるが、あの世界で生きていこうと一度は思ったのだからこれからもそう言う目に会う必要はあるのだろうと思う。
「逃げて、少しでも遠くへ」
「それは決して、彼にとって幸福と呼べるものではありません。
 優子様、貴方はそれをとてもよくご存知ではありませんか?」
「だからだよ!」
 何かを堪えている様に見える、泣きそうなのだろうか? それとも、こみ上げてくる怒りを抑えているのだろうか?
「こんな事に巻き込まれて、それが普通だって思って、そうしないと生きていけないとか思う事が本当に幸せだって言うのっ!」
 主体として何について語っているのかは判らないけれど、それが優子にとっては許容出来ないものであって。それが同時に忍にとってはこなす事によって優子の助けとなりたいと思っている、無理やりにでも。
「私は、幸福です」
 言い切る姿を見て、かすかに「信じらんない……」とか呟く優子を見て。流石に、少しだけ忍に同情をしたくなる己を発見して、ついでに「俺、今ここにいる必要本当にあるのかな?」とか思ったのは、間違っている気がしなかった。
「じゃあ、聞くけど……」
 ふと、嫌な予感を真一は感じていた。
 何と言うか、アレなのだ。何度か真一も色んな人達と知り合ったりする事はあったのだが、特に女関係となるとはっきりと変化する空気が判る。
「忍さ、何となく割りと結構長い目の付き合いになると思うんだけどさ」
 まるで、一本引いたラインを宣言してから渡る様な感じがして。それが大抵がろくなことに成らなかった記憶があるものだから、自然と避けたい衝動にかられた。
「そうですね」
 この男、そう言えば去年あたり学校に現れては話題になって。一時期苛め騒動が劣悪になったとかって話があったとかなかったとかあったのかもしれない……とか記憶の片隅でぼんやりと思っている時点で、真一にはまだ多少の余裕はあったのかも知れない。
「じゃあさ、僕と出会う前の君が今の君を見たら、なんていうかな?」
 何を言っているのか、真一には当然のごとく判らない。判らないが、言われた忍は微妙に動いたから判ると言う事なのだろう。
「恐らく、歯牙にもかけないことでしょう」
「ほらご覧、ほらご覧!」
 まるで、鬼の首でもとったかのはしゃぎようを見てしまい。「変わり身早いなあ」とか口に出していいそうになったが我慢した。
「つまり! 今は意識まで変わっちゃったんだよ。そんなのはっきり言ってダメでしょう、おかしいでしょう、普通じゃないし異常だ!」
 この、神河優子と言う平凡すぎて肥満の少女と。どう見ても普通ではない美貌の少年桜忍との間に何があるのかは知らないが、優子と出会う前の忍が今の状況を見て歯牙にもかけないと言う事は……どう言う人生を忍は歩んできたと言う事なのだろうか?
「優子様……それはですね」
 聞き分けの悪い生徒に対する教師の様な、なんとなく詐欺師の様な薄ら笑いを浮かべた忍の顔は。恐ろしく真実味とか説得力に欠けていると判断し、真一は正しい気がした。
「人とは、変化するものなのです。
 他の者はさて置き、私は今の私を好ましく思う事の方が多くございますよ」
 嘘でも間違いでもないのだろうが、反射的に「嘘だぁっ!」とか叫んでいる時点でえらく周囲の視線が気になる……さっきまでの緊迫した空気は、一体どこの世界に消えてしまったのだろう?
 思わず、そこいらを探したい衝動にかられてしまうのは現実逃避と言うのかも知れない。
「ちょっと、尾崎君!
 何をさっきから一生懸命『他人のフリ』なんてしてるんだよ。そんな事してるなら、とっととこの場から逃げてよね!」
 言ってることはまともなのだが……どこかコメディタッチの様な気がするのは何故?