時間と言うのは、普通の観点から言えば過去から未来へとただ流れるだけの概念に過ぎないというのは知っている。 空腹をホテルのルームサービスで馬鹿みたいに注文してから満たし、ゆっくりと身体をベッドに横たえたままで考える。 一体、今何が起きているというのだろう? 眠ったり目覚めたりをぼんやりと繰り返していたのは、単に普段の時間とは違う時間帯で満腹になるまで無理やり胃袋に食べ物を詰め込んだからで。 「な、なんだあ?」 不意に訪れた音の嵐は、それまでの静寂を打ち破るには十分な威力を持っていた。 それは同時に、部屋の中でテレビを見るなどの娯楽を全くしていなかったせいでもあるのだろう。 「早く、開けて!」 扉の向こうからは、くぐもっているけれど女のものらしい声が聞こえた。 「だ、誰だよ!」 僅かな躊躇いの後で声を張り上げて見るものの、それは虚勢以外の何物でも無いことは声を張り上げた真一自身がよく知っていた。 「人の事を呼び出しておいて、その台詞ってなしじゃないの普通っ!」 何やら、戸惑っているのか焦っているのか、困っているのかどうしようもないと言う感じの声が。 「て……どっちだって、片方しかないか?」 情け容赦なく、恐らく拳で叩かれまくる扉の心配は間違ってもしないけれど。だからと言って何かあっても困ると言う、非常に小市民的な事情が真一の心中を占めていた。 「逃げろ!」 開口一番、思わず命令形ですか? 何故か半ば呆然としつつも、冷静な脳みそが無難と思われる判断力をツッコミ形式で与えてくれて。 「ナニソレ……?」 こちらの反応など予想済みなのか、それともどうだって良いのか。恐らく後者だと推測されるナイスな速度で人の腕を掴んできたあたり、もしかして相手の神経もかなりヤバイ状態だったりしたらしい。 と言うのも、真一の脳細胞も寝起きとかぼうっとしていたとか。状況を把握しようとして3秒で早くもリタイヤしていたとか、そう言う背景の下にいきなり今の状況である。 まともに動くと思う方が、かなりおかしい。 「早く!」 しかし、状況を全く理解していない上に好意どころか「苛められっ子」以外の認識をほとんどした事もない、そんなクラスメイトが必死の形相で何かをしようとしているのは判った。 恐らく、その為に費やせる時間は少ない。 「うあ、こっちダメだ。そっち!」 一度は来た方向から出ようとしたのだが、何か思う所があったのかいきなり反転する。 しかしながら……お世辞にも運動能力にも体力にも優れているとは言えない彼女だ。着いていくのには「全く」支障はない。 「あのさ、お前さ……」 「それ無し。『お前』とか言うの却下だから。 言ってもダメなら、こっちもそれなりの対処するから」 じゃあ、なんて呼べば? とは、流石に少し思ったけれど言わなかったので「じゃあ、神河」と答えた。 彼女は、記憶にあるとおりの彼女が、説明もナシにホテルに現れたのを見て真一は思う。 ああ、何かが起きているのは本当なのだ。 「せっかく来たんだから、説明くらいしてくれるんだよな?」 狭い個室といえば、それは世間的にトイレかエレベーターに分類されるだろうと言う気がする。ちなみに、この場合は当然エレベーターであり、密室に男と女が二人きり……とは言っても甘い関係など欠片もないのは彼女がぜいぜいと息をしつつも、こくんとうなずいたからに他ならない。 「………………じゃなきゃ、来ない」 返事に時間がかかり、一階につくぎりぎりになってようやく声を出したのは。 単に、息切れが激しかったからである。 「だけど、時間ないから」 時間と言われて、少し真一の方も考える。 確か、昨夜の命の恩人的美貌の少年も放課後になったらこの場所まで来るというか。来るように言っておいた筈なのだ、まだその人物は姿を見せては居ないけれど義理と人情的には、そちらを待つのが筋の様な気はする。 「だから、逃げて。遠くへ、ずっと、もっと……遠くへ。でないと……」 エレベーターが一階出口への到着の音を立てる瞬間、神河優子は背筋をしゃんと伸ばしていた。 「帰れなくなる」 文法的に何かが違うような気がした台詞ではあるが、斜め上横から見つめて見る表情は一般の女子中学生のそれであると同時に。何かが違う様な気がして、それは一般的ではない世界に身を投じている真一だから判る事なのだろうか? 「俺……何かあったの?」 歩き始めた優子の脚に淀みはなく、どこか目指す目的がある様には見える。ただ、その半端ではない緊張の仕方から何か、特別な事情があるだろう事は判った。 「あったよ、何もなくてこんな状況に陥る人がいるなら見てみたい……ああ、稀にいるけど。でも、そんな人は滅多に居ないし」 また、詳細の説明を求めたくなる言葉を口にはするが。どうやらそのあたりの細かいフォローをする気はないらしく、少し考え込んではいるものの足は止まらない。 「君の知りたい事、本当は全部教えないといけないんだと思う」 広すぎるというわけではないが、フロアを横切るのに何分もかかると言うわけではない。なので、外へ通じる扉に至るまでの違和感を感じつつも気がつかなかった真一は。 「だけど、もしもそれを全て知ってしまったら。それこそ、戻れなくなるんだ」 どこからどこへ、とは言わない。 ただ、最初に見たときから感じていた違和感が外への扉が開かれた瞬間にダムが決壊したかの様に真一へと秋から冬へ切り替わる季節の独特の空気を感じさせた。 「だから、本当は何も聞かないで。耳に入れないで、脳みそに保存しないで、ただ逃げて欲しいってすごく思う」 だけど、そんなの無理だよね? そう語る言葉など、真一には聞こえていても耳に入っていない気がした。 「だから……先に謝っておくよ、ごめんね」 時間ってなんだっけ? 真一の頭の中で、そんな言葉が流れた。 それは、過去から未来へと無意味に流れるもの。決して戻らず、支流などそれが判らなければ今居る場所が本流だと思うしかない。 理論的には、そうなのだろう。 けれど。 「何コレ……」 まさに「呆然」と言った表情と感覚を持って見る町並みは、すでに枯葉が街を覆っている。道行く人々は昼間故に多少は上がった温度に喜び、過ぎ行く人々は何らかの目的を持ち歩むものの、それでもこちらには多少の視線を向ける程度の余裕はあったらしい。 「あれから、もう7ヶ月は過ぎてるんだ」 言葉は、まるで隙間に入り込むように真一の耳に飛び込んでいた。 「尾崎君、君は……浦島太郎なんだよ」 横から聞こえたと言う事は、呆然としていた真一の隣に立っていると言う事だ。 そちらを見てみれば、優子は手にしていた学校指定のスポーツバッグからコートとマフラーを取り出して。おもむろに「マフラー、使う?」と聞いていた。 「7ヶ月って……」 マフラーは眺めの濃い緑地に黄色のラインが入ったもので、女の子でなければ使えないと言うほどでもないが肌が寒さを訴えている様な。いない様なあやふやな感覚だったので、遠慮しつつ。 「だけど、きっと君の肉体感覚では合計でも2週間くらいしか感覚変わってないと思う。 意識的には、まだ混乱してるとは思うんだけど。でも、そんな感じ」 実は、その体躯に似合わない薄手のだぼだぼのコートの方に目が行っていたと言うのは、言わなければ判らない事なのだ。 「浦島太郎って……童話の?」 「うん……」 こっくりと頷いた優子が、再び先行して歩き始めた。その後を追いつつ、様変わりしてしまった「世界」を真一は始めて見る何かの様に呆然としたままで見つめる。 「寝てたから、置いてかれたって所?」 自重めいた表情を作れただろうか? そんな事を思いつつ、声に皮肉が混じっていたと言う認識はしていた。 「違うよ」 自分でも何を言っているか判らない事に、きっぱりと反応を示したのはやはり。 「尾崎君が世界に置いてかれたんじゃなくて、その逆。尾崎君が、世界とは少し違った……なんていうんだろう? 斜めから見る為にそこで固定されている世界からずれる様に置いていっちゃったんだよ」 「……意味、わからないんだけど」 普通に反応が来て、言葉の内容に関しては無視して、そして言葉の意味も反応も普通に帰して見たところ……優子は、ひどく困った顔をしてこちらを見てきた。 「ごめん、ボキャブラリー少なくて。語彙が足りなくて、多分、尾崎君が満足できる答えって、僕だと返しきれない」 では、一体誰ならばその満足を埋めることが出来るのかと言う事は。なんだか聞かないほうが良い気がして、今度はちゃんと制御しきる事が出来たのをほっとした。 どうやら、あまりにも沢山の「驚愕」に追い詰められすぎてしまった真一は、正気に戻ってしまったらしいと判断していた。 「で……どこに行くわけ?」 世界が、真一がぼやぼやしている間に代わってしまったと思った。別に、何があっても変わっても真一自身にはどうにかなるとは思っていなかったから正直驚いたけれど。 ただ、それだけだった。 けれど、目の前を歩く少女は違うと言う。 「とりあえず、移動。お腹とか大丈夫?」 変わったのは世界ではなく、真一なのだと。 世界は常に変わり続けているとか言う、安っぽい台詞があったと真一は思った。 「交通費、大丈夫なのか?」 思わず心配してしまうのは、とんでもなく遠い事を連想するよりも身近な所を考えた方が気持ち的に楽だからに過ぎない。 「うん、送ってきてもらったし。 尾崎君も、移動するのに必要なお金とか持ってると思うから心配してないよ」 昨夜の格好のままだったなら、まるでバイオレンスアクション巨編な映画の悪役か。ダークヒーローみたいでこうして街中を歩くのは難しかったのだろうが。 「昨夜までだったら、ちょっと難しかったけどな……なんで、そんなこと知ってる?」 今の真一は、ブラックジーンズに茶色の革靴。上はワインレッドのシャツに軽く黒いジャケットを羽織っているだけと言う、冬場にさしかかる時期にしては薄手の格好だ。 「うんと……ね。だって、携帯持ってるって言ってたでしょ? それって、ある程度の収入はあるって事じゃない。そりゃあ、お昼抜いて携帯料金に回す人とかだって居るけど、そう言うのじゃないんでしょ? だったら、ある程度の小銭は持ってるだろうって思った」 桜忍が用意したと思われる着替えの中には、他にウォレットやらベルトに付けるチェーンやらが着いている。 「まあ、間違ってないとは思うけど……」 それが、通常の状態であるならば。と言う前置きが着く。 「幾ら半年以上も眠っていても、それくらいは何とかするだろうって思ったし」 歩く度に裾が翻るコートを気にする事もせず、肩からかけられたマフラーを首に回すこともなく、優子は何かに戸惑いながら歩いているらしかった。全方位に向けて神経を尖らせながら、その尖らせた神経がどこか丸い様な感じ、とでも言うのだろうか? 「半年……あのさ、お……コウガは、何をどこまで知ってるんだ?」 「それって、なんか哲学的な質問だよね」 少し、優子が笑った。 見てとり、真一は少しほっとした。 同時に、理解した。 どうやら、真一はずっと今までぴりぴりした状態だったらしい。 「うん、でも少しなら言えるよ。 半年くらい前に……事故が、あったの」 |