「なに、これ……?」
 どこかの有名な文句に「トンネルを抜けたら、そこは雪国だった」と言う台詞ならあった様な気はする。こう言う文学的な事も古典的な所だけで良いからきちんと身に付けて置く様に、といわれたけれど役に立った覚えは残念ながら今のところない。
「目が覚めたらすんごい部屋だったって……今時、少女漫画でもこの展開って普通はないんじゃないのか? もしかして」
 記憶を検索してみて、どこまで記憶があるかどうかを探して見る。
 己の名前、チェック。
 出身地から少し前までのパーソナルデータ、チェック。
 何があったのか……思い出したくないけれど、チェック。
 こう言う時に限って、意外と役に立つのが少女漫画の知識だ。学校に来る女子生徒たちがまわし読みをしていたものの中で、割とアクションものっぽいものを幾つか読んだことがあって意外に面白かったのだが、緊急時に己の立場を色分けして判断するものは結構役に立っていた。と言うより、今も立っている。
 赤、青、黄色で状況を理解するのは案外文章をト書きで作成するのに似ている気がする。
「腹減った……」
 部屋の中をぐるりと見回して、窓があるのを見て近づいて見る。これが安いビジネスホテルとかだと外が見えない様に板とかが打ち付けてあったりするのだが、内装からして高級そうな部屋の外は都心のビルが群れを成しているのが見えた。
 更に部屋を見回してみれば、大きいなダブルベッドが二つ、簡易応接セットが一つ。
 応接セットのテーブルの上にはホテルの説明書と、手書きのメモで目が覚めたら朝食をルームサービスで取る事と。風呂に入る様に指示がある。
 指示に従うのは面白くないのだが、その脇に新品らしい服が一揃えあるのと己が昨夜の格好のままである事を差し引いて信用する事にした。
 ピストルで弟を銃殺しようとした実兄よりも、赤の美形他人の方が信用できると言うのも悲しい気がしたけれど。その彼も誰かの指示で動いているのは確かで……何と言うか、その人物の心当たりがある様な無い様な、なんともあやふやな状態になっているだろう事は判って。
「心当たり、なんかありすぎ……」
 ため息をつきたくなりつつ、とりあえず空腹を訴える胃袋を何とか宥めすかして先に風呂へ入ることに決めた。
 流石に、何も知らないだろうホテルマンの前をこの格好で相対するのはイヤだ。流石にベッドへ放り込まれる前に足の裏くらいは拭いてもらった様だが、だからと言って手術着と包帯以外は何も身に付けていないのは変わらないし。その上からぐるぐる巻きにしていたシーツに関しても、なんだかぱりっと糊付けまでされて洗濯された上で新品の服の上に畳んでおいてあるのは嫌味なのか違うのか判断にかなり困る。
「なんだこれぇっ!」
 すごい勢いをたててバスルームから現れたのは、当然の事ながら全身裸姿の尾崎真一、一四歳である。服を着たまま風呂に入る趣味はないのだから当然で、風呂に入ってから出るまでの所要時間はのんびりしていたのか三〇分程度。
「朝……ごはん、何か適当に。高い奴。
 それと、俺をここまで運んできた奴と連絡取りたいんだけどそれって出来る?」
 焦った真一は、それから一〇分ほど室内を無意味に散策した上で。結果的に唯一した行動と言えば……電話だった。
「聞きたいことが幾つかあるんだけど、とっとと来てくれる? え? 放課後? 昼休み? いいから、とっとと。今すぐ。
 来いって言ってんだよ!」
 乱暴な手つきで受話器を置いたのは、昨夜の命の恩人の筈の相手だ。しかしながら、この不機嫌さについては少しばかり恩人を相手にしている様には見えないのが不思議だ。
「はい、俺だけど……って、あんた誰?」
 ルームサービスが来るまでにまだ、少し時間がある。それは判っているので、外部からの電話だと呼び出された真一は、その相手がてっきり昨夜の桜忍と言う少年だろうと思っていた。
 しかし、その相手は違った。
 声が、どう見ても桜忍よりも普通の。と言うと語弊がありそうだが、それでもやはり、普通の少し声が高い少女のものだった。
『あの……えっと、おはよう』
「はあ……オハヨウゴザイマス」
 思い切りやる気のない声になるのは、どうしようもないと言う所だろう。
『起きてるかなって、思って』
「まあ、起きてるけど」
 そうでなければ、電話になど出る筈がない。
 朝食こそまだではあるが、風呂には入ったし電話で命の恩人に喧嘩も売ってみた。電話の向こう側の声が『よく眠れた?』とか『体の具合はどう?』とか言っているので逐一反応は示して見るものの、どうにも判断がつかないのが困る。
「で……誰なの、君?」
 取り留めないことばかり話されても、はっきり言って時間の無駄なのは言うまでもない。ルームサービスが来ていないのだからまだマシだが、この時間を無駄にするのも良い話だとは思えない。
『神河……優子、です。同じクラスの』
 印象としては「そう言えば、そんな奴いたかなあ?」程度でしかなかった。
 どうやら、空腹と疲労で頭の回転が非常に悪くなっているらしい。
「んで……そのコウガが何?」
『何と言うか……その、大丈夫。かな? って思いまして。好奇心?』
「好奇心って……あのさぁっ!
 ……と言うより、なんでここに俺が居るって知ってるの? それより、何であんたここの番号とか俺のこととか知ってるわけ?」
 数秒の間を置いて、向こうが沈黙から息を呑む音が聞こえて。内心では「何黙ってやがる」とか思っていたのだが、こう言う時に焦るとろくなことにならないのは経験済みだ。
『えっと、それって最初に聞く事じゃ……』
「いやまあ、そうだろうけど……」
 ここで切れて怒鳴りつけても構わないと言うより、普段ならば少し着に食わない事があれば迫力を出して無理やり相手を押さえつけるのだが、何やら今朝に限っては毒気を抜かれてしまっている様な気がして。
『つまりね……その、僕が。黒幕なんだけど』
 オドオドとした、と表現するには微妙に強気な発言だと言うのが真一の印象だった。
「……何の?」
 ここでも切れなかった真一は、頭の片隅で「腹ペコで頭が回ってないんだ」と思った。
 あくまでも、ぼんやりと。
『昨夜の……です』
 電話の向こうは、あくまでも静かだ。周囲に誰も居ないか、それとも授業中と言う可能性もある。真一はしばらく行っていないが、これでも二人とも公立中学校の生徒なのだし時間的に何時間目かの授業は始まっている筈。
 少なくとも、自習時間ならばこんなに静かな筈はないわけで。
「昨夜って……どっちの?」
『そこまで言わないとダメ、なの?』
 少しばかり、うんざりと言う声が聞こえてきたのが意外だった。
 つまり、彼女は。神河優子と言う存在は、昨夜の尾崎真一の身の上に何があったのかを正確に知っていると言う結論になる。
『ええと……後で、行くから。
 詳しくは、それからじゃ。ダメ?』
「ダメ」
 はっきりと即効で拒否反応を示すと、電話の向こう側では何やら沈黙を持って返される。
 どうやら、今の状況に対して悩んでいると言った所の様だ。
『今日、掃除当番なんだけど……6時間目まであるし。部活とかはないけど』
 更に意外なことに、悩んだ理由は授業と掃除当番だったらしいのは驚いた。
「ああ……ええと……サボるとかは?」
 思わず、相手のペースに引きずられて見る。
 何となくだが、ここで怒ると単なるイジメにしか見えないのではないかと言う気がしてくるからだ。第三者的客観的な見方としては、それに彼女は何となく全て説明が出来るかも知れないと言う気もする。
 手がかりは、がっちりつかんで放してはならないと言うのも。真一は教えてもらった。
『サボり……かあ……うーん……』
 ひどく真面目に通っているのか、とてつもなく抵抗感があるらしい。
『ただ……』
「じゃあさ……」
 遮ったのは、間を取った妥協を提案しようとしたからではあるものの。実は、彼女に対して譲歩と言うわけではなかったりする。
『ただ、僕。君がいるところってわからないから、運んでもらわないとダメなんだよね』
「……はあ?」
 では、どうやって電話をしてきたのだろうかと言う疑問がある。あるのだが……なんとなく、聞くと後悔しそうな気がしたのは何故なのだろうか?
「じゃあ、どうやって電話してきたわけ?」
『んーと……なんとなく?』
 何故、そこで疑問系?
 これ以上聞くと、更に後悔する様な気がしたので無理やり意識を落ち着かせた。
「はぁっ? ナニソレ」
 しかし、その努力はかなりむなしい結果をもたらしたらしい。思わず出た声に、何故か真一が驚いている事実がある。
『え、だって。なんだか尾崎君どうなったか気になってたら、なんか数字が幾つか出て来てたから、書いてたら電話番号みたいだなって思ってみたから。掛けてみた』
「なんじゃそりゃ……」
 まさしく、真一の心情そのままに「なんじゃそりゃ」である。
 ずっと心の中で考えていたら出てきたなんて、まるで世界一有名な青色ネコ型ロボットみたいな事をしたと言われて平静で居られる方が珍しいだろう。
『うん、でもね。この番号ってホテルの番号じゃない?』
「そりゃあ、まあ……」
 確かに、かかってきたのはホテルの電話機宛てなのだからホテルの電話なのは当然だろう。一体、そこのどこに疑問を挟む余地があるのか、真一には理解出来ない。
『あのさ……聞きたいこと、あるんだけど』
 この番号って、何の番号だか知ってる?
 そう言われた数字は、驚く事に真一の所持しているはずの携帯電話の番号だった。
「おまっ……なんでその番号知ってるんだよ」
 声に焦りが出るのは当然だろう、手荷物どころか服すらまともに着ないで逃げてきたと言うのに、何故電話の向こう側の人物は真一の携帯電話を知っているのだろうか?
『うん、最初にこっちの番号を思いついたんだけどね。なんだか……繋がらない様な気が、してね。それで、もう一度考えたら、こっちの番号が出てきたから』
 何を、コイツは言っているのだろう?
 真一の心情を一番わかりやすく表現するのならば、その台詞が一番妥当だと言えた。
『もしもし、もしもし。聞いてる?』
 聞こえてる? ではなく聞いてる? といってくるあたり、どうやら先方はこちらの事を理解している様だと心のどこかで反応した。
「……何?」
 ならば、これを上手く使いこなせば状況は少しでも真一にとって有利に運ぶことになるのだろうか? それとも、このワイルド・カードは徹底的に真一を奈落の底に陥れる事になるのだろうか?
『ああ、よかった。電話切れちゃったかと思ったんだけど……で、携帯って今どこにあるの? こっちの番号かけてダメだったら、向こうにかけてみようと思ったんだけど』
 不思議な事に、真一はどちらも可能で当然である様な気がしていた。
「さあ……俺も、今の状況ってわけわかんないし。説明とかもされてないんだよ。
 だから、とっととこっちに来て説明とか色々して欲しいわけ。判る?」
『それは……判るんだけどね?』
「けど、なに?」
 ここで大切なのは、相手を納得させる為の手札だ。しかし、残念ながら正当な方法で相手を陥落させられるかどうかは判らない。
 何しろ、少ない記憶から探しても相手の事は大して覚えてはいない。記憶はあるかも知れないが、思い出そうとする努力とは縁が無い。何しろ、真一は「学校」と言うものに対して今まで恐ろしいほど無関心でいたから。表面上はともかく、内心では馬鹿にしていたのは言うまでもなく「どうせ、こいつらとは二度と会わないんだし」程度でしか考えていなかったからだ。
 こう言う時、事務所の老人の一人が「どんな些細なことでも覚えておくと役に立つ事がある」といわれた台詞を悔やみながら思い出して、余計に落ち込んでみる。
 今が、まさにその時だからだ。
「もしもし? 聞いてる? 返事は?」
 さっきと立場が逆だとは思ったが、不思議と回線が切れてる気はしなかった。物音が極端に少ないのは最初からそうだったわけだし、彼女の現在位置を考えても物音がしないのはまだ授業中だということになる。
『聞いてる……けど』
「けど、なに?」
 そろそろ電話を切らないと、ルームサービスが来てしまいそうでイライラとしてしまう。
 朝から色々あって、ここで余計にイライラが募るのは困ると同時になんでこんな事しているのかと自分自身を叱咤したくなる。
 こんなことをしている暇など、ないのに。
『僕、一人でそこに行けないんだけど。
 せめて、放課後まで待ってくれる? そうしたら、連れてってもらうから』
「ダメだから、今すぐ」
『だから……その場所、わからないんだって。
 判る人に、連れてってもらうから。それまで待ってて欲しいんだけど』
「ヤダから、今すぐ。新宿だから」
『ヤダとか言われても……あのさあ、新宿に一体幾つホテルがあると思ってるの?』
 そういわれてしまうと、真一としても無理に来いとは言い出しにくくなる。
 第一、黒幕だと言う割りに真一の現在位置はわからないといい。その割りにホテルの電話番号は判ると言うのだから、むちゃくちゃも良い所だ。
 確かに、放課後になれば来られるのだろう。
『大体、交通費ないし』
「ああ……その問題もあったか……」
 一般レベルの中学生の自由になる金は、決して高いとは言えない。しかも、真一はともかく電話の相手は本当に普通の女子中学生でしかない……と、そこまで考えて何故彼女が「黒幕は自分だ」などと言ったのだろうかと言う疑問が初めて沸いた。
「あのさ……」
『本当に、ごめんね。
 多分、僕だったら今すぐにだって首根っこひっ捕まえて頭がくがく揺らせて気絶と正気の間をさ迷わせても理由とか文句とか聞きたいとは思うんだけど……』
 なかなか物騒な台詞を吐くが、そう言えばどこかで誰かが彼女の事を「本を読んでいる時以外は表情がない」とか言っていた事をふと思い出した。自分も似たような事をいわれたからなのだろう、珍しい記憶だ。
『片道でも500円以上って、ちょっと無理』
「ああ……確かにそうだよなあ」
 しかし、放課後まで待てばいける手段があると言うのは、何故なのだろう?