静かに流れる車は、ここが現実の空間なのだろうかと言う気にさせてくれる。確かに外車とは言ってもある程度は狭さを強制させられるけれど、ゆったりと走る車の中に居るとふかふかのクッションと相まって判断力を異常に鈍らせるのだという気がしてきた。
「飲みなさい」
 走る車と同じくらい、静かにその人物は手にしたグラスをこちらへと差し向けてきた。
「何、コレ……」
「アルコール。今の貴方には必要でしょう」
 そっけない言葉と共にこちらに渡されて、思わずなけなしの良心が咎める。
「俺、一応未成年なんだけど?」
「飲めないわけではないでしょう」
 確かに、酒など兄の正和関係で幾らでも呑まされる事はあったので飲んだことがないとは言わないし、呑めないとも言わない。どちらかと言えば割と、呑める方ではないかと言う気がする。あくまで気がするだけだが。
「毒を入れるのならば、もっと狡猾にやりますよ。少なくとも指紋をグラスに残したりなんて、そんな初歩的ミスは犯しません」
 綺麗な顔をして、なんでそんな冷淡に切り捨てる言い方が出来るのだろうかと言う気もしたが、とりあえず一口。
「本当に酒だし……」
 しかも、かなり高級な酒だと言う気もした。
 口当たりとかの違いは、普段呑んでいる安物っぽい人工的な味と香りとは全く違うものなのだと教えてくれる。
「ただし、一杯だけです」
「なんで……俺を助けたわけ?」
 最初に礼を言わないといけない様な気もしたのだが、それについては口にしない。
 もしかしたら、彼には何か思う所があってわざわざ現れたのだろうと言う気がしたから。
「それは、貴方が会わなくてはならない方が居るからですが……正直、私の望みではないと言うのは確かです」
 確か、彼は同じ年齢くらいだった様な気がしたのだが。こうにも丁寧語で回りくどく「面倒くさい」と言われるのも、何やら真一としては言いたいことがあるけれど今言ってもどうにもならないだろうという気もした。
「一緒に来ることはご希望ではありましたが……僭越ながら、あの方がご一緒になられるには問題のありそうな状況であろうと判断しまして、私が独断で迎えに来たわけです」
 しかし、この男はどうしてこんなスーツみたいな格好でこんな口調をしてて、しかも冷淡としか言い様が無い眼差しで前を見据えて。こちらなど最初からノー眼中と言った感じなのに、一四歳で色気みたいなもの何故持っているのかが不思議だった。
「せんえつって、どういう意味?」
 答えは、無かった。
 病院からの脱走と言うか脱出も、逃げた先に居た兄に拳銃を向けられたのだって。確かに、どちらも物騒と言えば物騒だ。
 状況だけを見れば、彼の判断は正しい。
「それって、誰?」
 まるで、そうなる事を知っていたみたいに。
「少し……寄り道をします。貴方の格好であの方へお目通りをされるのは、問題ですから」
「問題って……」
 今度も、返事は出来なかった。
 何しろ自分でも判るのだが、まずは風呂に入った記憶がない。髪は一応ふき取られたらしいのだが、なんだか脂ぎっている気がするし。身体もあちこち薄汚れている気がする。
 しかも、包帯と手術着以外は下着も着ていなければ靴もない。はっきり言って白いシーツにくるまれた状況は、警察に捕まっても文句を言えた義理ではないだろう。
「それって、女?」
 身なりを気にするのは、ある程度以上の収入がある人物か女性に限られる。
 そう言っていたのは、果たして誰だったのだろうか?
「あのさ……」
「何ですか?」
 果てしなく、違和感を感じた。違和感と言うよりも、どちらかと言えば悪寒に近い。
「あれ、さっきの……何?」
「アルコールですが?」
 まさかエチルアルコールとかってオチだったりしたらイヤだと思ったが、エチルとメチルの違いはなんだろうかと言う思考が頭をもたげたりして。
 問題は、そんなところではない。
「アレ、本当にアルコールだけだった?」
 異常なほど、と言うよりも完全に異常な状態になっている己の肉体をもてあました状態になっているのを理解した。
 と言うより、理解できない状況に居る自分自身を理解したと言うのが正しいだろうか?
「ええ、当然です……そして当然の事で恐縮ですが。あれだけの時間を眠ったまま過ごして飲まず食わずの状態でいらしたのにアルコールを摂取すればどうなるのか……」
 お分かりですよね?
 そう言った時、初めて彼は。
 美貌の財閥次男坊である桜忍は、こちらを見て薄く微笑みかけて。
「心配は無用です、こちらで上手く取り計らいますよ……あの方のお望みですから」
 心の底から思い切り安心出来ないと言う気持ちが表情に表れていたとしても、それは当然の事だろうと思う。
 兄に目の前で拳銃殺人されるのも困るが、心情的には「どうされるか判らない」と言うのも同じ程度には困るのだ。一応は、助けてもらった部類に入るとは思うけれど、だからと言って何をされても文句が出ないと言うわけでもない。
 それに、これは真一自身の失態でもある。
 しかしながら、今の真一に出来る事があるとすれば頑張って嫌な汗を浮かべる全身を奮い立たせて意識を手放すのを止めさせる事くらいで。実際には、本当に何とか意識が外部を認識している程度の事にしかならないのは判った。
「夜分に申し訳ありません、桜と申します」
 どこかに、電話をしている様に見えた。
 今時、高校生以上ならば誰でも携帯の一つや二つ持っていてもおかしくはない。もっとも、真一が中学生にして持っているのは兄関係の絡みと言うわけではなく、意外と心配性な母親のせいではある。
「はい、いつもお世話になっております」
 ずいぶんと丁寧な言葉使いをしているが、その目が同じくらい冷静に細められているのを見るのは面白くないと言うか寝るのをさえぎられる程度には使えるのだという印象くらいしかない。
「夜分に恐れ入ります、はい。
 例の方を確保いたしました……はい、そうですね。お時間もお時間ですし、今夜の所は部屋でも取りましてゆっくりと休んでいただこうかと思います」
 しかし、相手が変わったらしく一気に人間味のある顔に変わった瞬間には内心で「どうしよう」と困ったりしてみた。
 なんなのだろう、この電話の相手は?
 最初に出た相手とは違って、電話のこちら側の人物は格段に笑顔と言うより表情がある様に見える。と言うか、あるとしか言い様がない上に仮面みたいにこわばった笑顔ではないのだから、反則をされてる気がする。
 今時の顔と言うには問題がありそうだが、何となく中世の油絵とか肖像画ではこう言う顔の一つくらいあった様な気がするのに。普段の記憶はさほどないけれど能面みたいに表情が全く動かない姿は誰かが「将来顔の筋肉が固定されそう」だとか冗談めかして言っていた様な気がした。
「話がつきましたので、お送りします」
「……はい?」
 それ以外に、一体真一には何を言えば良かったのだろうか?
 誰かに教えて欲しいと本気で思うのと同時に、やっぱり教えないで欲しいという気も同時にした。
 もしかしたら、今は何を聞かれて言われてもまともに返事など出来ない気がしたからだ。
「明日になりましたら迎えをよこします、それまでに身支度を整えておいて下さい」
「……て、そーじゃなくて」
 朦朧としかけた意識を無理に奮い立たせるのは、すきっ腹な所へアルコールを流し込み、静かに揺れる心地よさを無駄に演出してくれる移動中の車の中ではひどく馬鹿らしい気もしないでもなく。
「一人で身支度も整えられない様でしたら、こちらで手配しますが?」
 通常ならば、確かに「馬鹿にしてんのか?」とか言い返すのだが。残念ながら、現在進行形ではそう言う事も言いにくい。
 と言うよりも、一体どこへ連れて行くつもりなのかがはっきりと判らないのが問題だ。
「あの方のお住まいの近くにはホテルなどはありませんから、利便性の高いところで手配しておきましょう。
 ご要望でしたらメイドも2、3人つけますけど……」
 暗に「どうしますか?」とか言われても、なんでいきなりメイドとか、しかも一人じゃなくて2、3人とか言われてるとか、そう言う事がどんどん頭の中でぐるぐると回り始めた時点ですでに理解力と言う存在からは見捨てられていたのだろう。
「……吐きそう」
「困った人ですね……」
 とは言われても、胃袋が空っぽの状態でいきなりアルコールを流し込ませた人物の台詞だとは、とうてい思えない。