何に?
 そう問われたら、恐らく答えられないだろうと思った。
 何から?
 そんな風に聞かれたら、口をつぐむしかないと言う事だけは判った。
 何が?
 起きたのかと言われたならば、それはすんなりと答えが出た。
 解放されたのだと、言える気がした。
「……え? 何、この状況?」
 ギャップだと気がついて、それまでとこれからと何が違うのかを読み取ろうとしてみた。
 とりあえず、気を使いながら四肢を拘束しているとしか思えない機械類とか身体に突き刺さったチューブとかをはずして見る。
 中には、機械が何らかの反応をしたりチューブから抜くときにこぼれた己の血液っぽいものとか透明な液体なんかがピタピタと音を立てているのを見たり。して。
「あれえ?」
 ぽりぽりと頭をかいてみるが、それはぐるぐる巻きにされてかちんこちんに固められている。その中にあるはずの手とか指とかの感触は割りとあるので、とりあえず「ぶん!」と音が鳴るのを承知で振って見ると。
「……割れるし」
 何となく、なけなしの常識が「いや、今のは砕けたって言うのが正しいんじゃないの?」とか言っているような気がしたけれど。まずは、無事に戻ってきた手に対してエールを送りたくなる。
 普通、包帯とギブスで固められた腕を振り回した程度で粉々に砕けたりはしない筈だ。
 そんな感じで足にも付けられていたギブスを本能的に無理やり破壊してみるものの、別に特に「破壊」を希望したわけではないので困ってしまう。
 困りついでに、やはり看護士のミナモあたりに見つかったら叫び声でも上げられた上にお説教でもされた挙句、ついでとばかりに賠償金請求とかされたらどうしよう? などと思っていた時点で、かなり余裕があると見るべきか切羽詰りすぎて現実逃避に走ったのかとか、そう言う方面の話もあったりする。
「ヤバイ……よね?」
 誰ともなしに聞いてみるが、当然返る言葉などある筈もない。
 病院の中だと言うのは、判る。ミナモが散々愚痴交じりに色々な情報を吐露したのは、世話をしている筈の患者が意識不明な状態だったからに過ぎず。もしも真一の目が覚めてまともな状態だったとしたら、間違いなく得られなかっただろう情報も幾つか持っていた。
 そして、真一はその「異質さ」にまだ気がついていない。
「……逃げるか」
 起き上がる動作をして、普通に地面に立っている。リノリウムの床が薄暗い電灯照明の光に鈍く反射しているのが見えて、ふと違和感を感じてみる。
「……どうしよう」
 ひどく真面目な、それでいて一四歳の少年に相応しい困った顔をしている原因とは。
「このままで外出たら、捕まるよね……」
 腕はともかく、全身のあちこちに巻かれた包帯以外は手術の前後で来ただろう簡素な服だけで。実際には下着すら付けていないと言う、なんとも情けない状態だったのだ。
 機械の立てるモーターの様な音と、自分自身の声だけが室内を満たす音だと思った。
 音はどうして響くのか?
 何やら、あまりにも無関係な事を思考してしまっている自分自身が流石におかしいと言う気もしたのだけれど。やはり、これはこれでパニックでも起こしているのだろうと言う事であっさり結論付けて見た。
「なんだか、結構冷える気がする……」
 何だかほどけて来た様な包帯をずるずると引きずりつつ、手術着のまま素足で歩くのはどうなのだろうか? 変態とかののしられなければ良いのだけれど……と言う気がして。思わず手にしてしまったベッドのシーツを持ち出すのは窃盗にあたるからイヤだけれど、なんだか寒さが全然違うし。何よりも、手術着は半そでの上に下半身を何も隠してくれないわけで事故とかで見られるのを好ましく思うほど人生を投げたつもりではない。
 これでも、人生を左右する思春期の時期なのだ。傷つきやすいし、後の人生はどうせ兄が無理に事務所に引きずり込むかも知れないけれど、せめてそれまでの間くらい普通の一般的な中学生で居たかった。などと、埒も明かないことをぶつぶつと呟いている自分自身を発見したりして、これは相当キテるんだろうと言う風にした。
 結論付けながらも、シーツを腰に巻きつけるのではなくマントみたいに包まるのは。
 意外と、悪くないと思った。
 でも白い色のマントは夜の闇の中にあって目立つし、それは病院の薄暗い照明に当たっているだけの状態でも同じだと思った。歩く度に、どこからか流れ込んでくる外気と相まって裾がひらひらと揺れるのが女子のスカートみたいで気恥ずかしいのだけれど、これを脱ぐとホラー映画の一キャラクターとか。とりあえず露出狂と間違われたりしそうな気がして、一度包まれると脱ぐ気は失せていた。
「……しまった、どっかで服を調達するんだった。けど窃盗だしなあ……」
 売店に行けば服くらい売ってるだろうとは思うのだが、どうやら時間的に売店などが開いているとはちょっと思えない感じだ。正確な時間は時計を持っていないからともかく、しんと静まり返った建物の中には人の気配がないわけではないけれど静か過ぎて耳が痛くなりそうな気がした。
 時折、どこか遠くの方でぺたぺたと言う音がするのは、もしかしたら看護士の巡回ではないだろうか?
 下手に見つかると厄介な事になると思うのだが、かと言って黙って逃走したらどうなるのだろう? 少なくとも、それもそれで厄介な事になるのは確かだ。でも。

 死にたくない。

 今、心の中を支配している感情はソレだけであり。その為ならば、どんな事でもしなくてはならないと言う使命感にも似たものを抱えている自覚はあったし。
「せめて、会わないと……」
 実際のところを言えば、さっき眠っていただろう真一の下に聞こえた声が実在の人物のそれかどうかと言うのは確証がまったくない。
 どちらかと言えば、あれは単なる幻聴であると言う可能性の方がひたすら高い。
 そもそも、どこの誰なのか判らないのだ。
 しかも、今の自分自身は立場すら全く不明。
 まず、何をすれば良いのか正直な話として何も判らないし、黙って待っていたら明日の朝にでも教えてくれるだろう誰か。例えば、看護士のミナモとか外科医の長谷岡とかが何かの説明をしてくれるだろうと言う気はする。
 もっとも、そうなると今度は元気になったせいで警察に引き渡される可能性も高い。
 そっと、非常扉を開けた。
 本来ならば、非常扉は非常時にだけ必要な扉であって警報機と直結しているのが当然なのだが。外部からの侵入者よりも内部からのプチ脱走者が手を加えてしまった為に鍵はかかっていないし警報機とのリンクもあっさり切られていたりする。
 はっきり言って、消防署からのチェックが入ったら間違いなく失点になるのは言うまでもないだろう。
「真一……?」
 扉を出て、階段を下りて、足の裏が真っ黒になっただろう事を自覚して、けれど足は止まらなくて走る事なく降りる。
「兄貴……来て、くれたんだ?」
 階段を降りきった所には、人が居た。
 誰かがいると思っていなかっただけに驚き、その相手も相手が裸足の為に音がほとんどしていない事実を驚き。
 それぞれが、お互いが唯一の兄弟である事を更に驚かせ。ついでに、兄は弟の格好を。弟は兄の格好を目をむいて驚いた。
「兄貴……?」
 弟の、真一の格好がおかしいのはわかる。
 肩のあたりからどう見てもシーツと判る白いぐるぐる巻きの状態で、手足には垂れ下がった包帯が見え隠れする。足はほとんど生足むき出し状態であり、これが少女だったらもっと美味しいシチュエーションだったのかも知れない、などと他人行儀で思うくらい異質。
「なんで……?」
 対する兄は、尾崎正和はいつもと違ってばっちりとスーツを着こなしている。趣味が悪くない程度ではあるが、一目で安物と見分けがつくものの。普段のラフな格好からは想像もつかないほどのきちんとした姿で、同時に皮肉気にゆがめられた顔は何かを。
 何かを、決意した顔で。
「兄貴……?」
「なんで、生きてた?」
 風が、吹いた。
 同時に、心臓が跳ねた。
 音を立てて向けられたもの、それは見たことがある。それだけではなく練習だってさせられたし講釈だって色々と、聞いた。
 知識だけはどれだけあっても無駄にはならないから、そう初老の大人たちに教えてもらったのはいつの事だっただろう?
「なんでって……俺……!」
「全くよう……なんだって、お前生きてるわけ? しかも無傷っぽいし」
 その口調は、一つの想像を真一にもたらす。
 正和は、まさか。
「どうして、お前死ななかったんだ?」
 聞きたくないと、心の底から思った。
 けれど、それは叶わぬ願いの様だというのが判ってしまって。けれど、思考回路と肉体の反射は別物だということなのだろう。
「おかげで計画がおじゃんじゃねえかよ!」
 ずいぶんと、軽い音だと最初に思った。
「な、何避けてんだよ!」
 ピストルから出る銃弾の音と言うのは、テレビで見る重みのあるソレではなく何かが破裂する様な軽い音でしかないのだと。最初に射撃を練習した時に、思った。
 子供の手ではまだ片手うちをする事はないと言われて、今でも形しか真似はしたことがない。と言うのも、肉体がきちんと出来上がっていない状態で下手に片手打ちなどをしてしまうと成長する時に骨に不具合が生じるからなのだと説明してもらって「ふうん」などとぼんやり思ったくらいだ。
「待て、この野郎!」
 何より、片手打ちは両手打ちよりも反動が大きくて狙いがきちんと定まらない上に外れるケースが異常に大きい。本当に相手をどうにかしたいのならば、両手打ちで相手の腹辺りを狙うべきだとその人たちは言っていた。
 おまけに、動いている相手をしとめるのは非常に苦労する上に手足や脳みそは動きが激しいので標的とするにはあまり向かないのだ。
 兄は、講釈をきちんと聞いたのだろうか?
「乗りなさい」
 そこまできちんと物事を考えられる様になったのは、病院から兄から逃げ出して大通りにまで出た時。目の前をシールドグラスの入った、白塗りの大型外車が停まってドアを開いている人物の姿を認めた時だった。
「死にたいのならば、そこに居なさい」
 その人物は、そう言っていた。
 ひどく、現実味の無い顔だと思った。