状況と言うのは、常に流れているものだと誰かが言っていた気がした。それは事務所の誰かだったかも知れないし、母親だったのかもしれない。
 意外なことに母親は博識で、以前それを言って見たら「どんな仕事についていても知識って言うのは必要だし。どこで使えるか判らないものなのよ」と珍しく柔らかい笑顔で言ってくれた、気がした。
 思い込みかも知れないけれど、と思うと少しだけ心の中で波が揺れた気がした。
「はあい、尾崎君。おはよう!」
 元気だが抑えた声で入ってきたのは、どうやら担当らしい看護婦らしかった。最初に自己紹介した時に「看護婦じゃなくて、きちんと看護士って覚えないとダメだよ?」とか言っていた、なんだか子供っぽい女性だ。
 意外と言うか良くわからないが、思っても見ないところで思ってない所から情報と言うものは勝手に流れ出したらしく。
「尾崎君って……警察の人に何か狙われる様な事でもしてたの? まだ相当若いのに」
 看護士の彼女は自己紹介の時の記憶が正しければ「坂田ミナモ」と言うらしかった。別に記憶するつもりは無かったけれど妙に記憶から離れず、彼女は抑えつつも常に楽しげな顔でベッドに機械によって繋がれた年下の少年を相手にするのが楽しげな様子ではあった。
「ま、でも当分は無理よねえ。だって、目だって開かないくらいの状態なんだしぃ」
 病院側は、緊急状態で運ばれた少年を無理やり手術やら何やらで治療はしたものの。その少年が意識を取り戻した状態である事には、どうやらまだ気がついていないらしく。
 確かに、目は開いてはいないのだが意識はしっかりと室内を検分するだけの落ち着きを。
 尾崎真一は、取り戻していた。
「警察の人がね、あんまり良い態度じゃないよね。あたし、ああ言うのって好きじゃない」
 坂田ミナモは、愛嬌のある唇をドナルド・ダックの様に尖らせて不満そうだ。どうやら、担当看護士であるミナモが真一の事について警察からとやかく言われたと言うのが原因らしい……しかし、真一は自ら行動を一切起こそうとはしていない。会話もしていなければ、意識を取り戻した事を伝えてもいないのだから何を聞かれてもミナモにとっては答える事など出来ないのだ。
 しかし、警察と言う職業は何者をも疑ってかからなくてはならないらしく。下手をすれば真一はこのまま警察病院に移送させられる事になる、との事らしい。
「でも、意識不明の重体の患者を本人どころかご家族の了承も得ないで。しかも未成年を勝手に移送だなんて! ってセンセイ達も言っててねえ……そりゃあ問題よね」
 ありがたいのかありがたくないのか、正直なとこを言ってしまうと真一にはよく判らなかった。
 ミナモの独り言によって、自分自身が尾崎真一と言う少年である事や生活態度などはわかった。母親の所に行った連絡によって年齢が判断しかねる女性がガラスの向こう側に居るのも判ったけれど、会話は全くしていない。
 ただ、女性は化粧が崩れるのも構わずに泣いていたのが印象的だった。
 自分が横たわっている部屋が集中治療室と呼ばれる延命処理施設である事も、母親だと言う人が来たときに判った。
 別に記憶喪失だった、なんてオチではなくて何か霞がかかってぼんやりした感じがずっと続いていたから外部からの情報で意識と言うか記憶と言うか判断力みたいなものがクリアになったと言う点では感謝している。
「センセイ達……ね、君がそろそろ目覚めないと危ないって言ってた」
 包帯でぐるぐる巻きのミイラになっているだろう自分自身を思うと、何となく何かが重い様な気がした。だが、それがどうしてなのかと言う気持ちについてはさっぱり理解出来なかったのが不思議だった。
「それなのに、今は移送なんて無理だって言ってるのに。電気ショックでも何でも使って起こせって言うんだよ、酷いと思わない?」
 ミナモにとっては、せっかく世話している患者を無体に扱うのは許せないと言う所なのだろう。こうして怒りを露にしているのが、自己顕示欲だとかそう言う難しい事ではなくて、反射的な事ならば可愛げがあるのかないのか……と、そこまで思考をしてからミナモが「また、後でね」と言って去って行くのを感じた。どう言う意味での言葉なのか、本当の意味での真意なんてわからないけれど。
 ミナモが現れる時だけが、この部屋の時間が進むとき……正確には、この部屋に訪れる者がある時だけ。と言うのが正しい。
 先日、人の頭上で夫婦漫才なのかボケとツッコミなのか判らない事を繰り広げてくれた男女のうち。男性については一日一度はガラスの向こうに訪れていたけれど、女性の方はまだ一度もお目にかかってはいない。とは言うものの、眼球を開いて何かものを見た記憶がないのだから必然的に時間の止まったと思われる室内で訪れるのは思考との対話。想像とか、おかしい人だと言われる部類の作業でしかないのは困ったと同時に仕方が無いと思うし他に誰も居なくて良かった。
 何しろ、身動き一つ出来ないのにやる事がない。しかも目覚めた状態を知らせているわけでもないのだから始末に終えず、では何故周囲に目覚めている事を知らせないのかと言う思考に陥ると、同時に「今はダメだ」と言う謎の命令が頭の中で響くのだから。
 これはもう、本格的にダメになったのだ。
 そう思うのもまた怖くて、その思考に関しては可能な限り隔離出来るようにしていた。
 そんな自分自身を「子供だな」とは思ったけれど、実際に肉体年齢も子供らしいから。その思考に関してもそれはそれでイヤになり……しかし、現実を受け入れなくてはならないと言う状況に関しては、何やら訓練でもしているかの様な気分になった。

 来ルヨ……。

 だから、恐れた。
 手も足も、顔も首も、感覚すらない。瞼だってぴくりとも動かない。もしかしたら幽体離脱とか超常現象の世界に足を踏み入れてしまったのだろうか? などと幾度となく思っていたりする今現在、それでも毎日ほぼ決まった時間に現れるミナモとか、一度も現れない女医とか、一日一度はガラスの向こう側か内側に現れる男性医師とか、一度だけ見た母親とか言う女性の存在とかを見るに、まだ生きているのだろうとぼんやりと思ったりして。

 奴ラガ、来ルヨ。

 その声は、異常なほどの圧倒的な存在感を持っているのが判った。理解したいなどと欠片も思っていなかったのに、それは強制力を持っているのが判ったし。勘弁して欲しいと、心の底から願わざるを得なかった。

 誰……って言うより、何? どこから?

 外部に向かって出来る事と言えば、思考を浮かべることだけ。それはテレパシーとかと呼ばれるものではなくて、何となく人の肉体は電気信号を通すとか言う話から連想して電波みたいな気がした。

 死ンジャウヨ。

 言葉、一つ一つに重ねられた言葉に重さがあると言うのならば。真一の言葉には空気よりも軽いヘリウムガス並の重さと言うより軽さでしかなく、逆に聞こえてくる声は1平方センチメートル内で1トンくらいの重量があるのではないだろうかと思ってしまった。
 無視、出来ない。

 何だこれ、何だこれ、何が起きてる?

 決して肉体には現れていない、それは感情。
 常ならば、冷や汗くらい背中に流れて表情が驚愕にゆがむかもしれない。この言葉に逆らうなど、この声を無視するくらいならば血の気の多い事務所の幹部連中3人くらいにぼこぼこにされる方を選びたくなる。
 それくらい、重さを感じる。
 好意かと問われたら、思わず「勘弁してくださいお願いします」と言いたくなるのに。悪意なのかと問われたら、それについてはかなり返事がしにくいと言うより出来ない。
 まるで、幼い頃に見たこともない真っ黒で顔も見えない。その体躯にあわせた大きな手をした真っ黒なおじさんに顔を両手で挟まれ、無理やり言う事を聞かされたとかそう言う感じがして、そんなのは成長するに従ってどんどんと無くなって行った筈……なのに。

 逃ゲナイノ?

 言葉は、問いかけに変わっていた。
 一体どこから来たのか、とか。
 どうしてそんな事を言うのか、とか。
 そう言う事は一切考える事を否定させられて、うねる嵐とか大海の小船とか、そう言う感覚であって。

 に、にげ……?

 泣きたくなると言うのは、まさにそんな感じで。なのに中学生にもなって、教室で喧嘩して相手の鼻血を出したり、学校で煙草吸ったり、担任の教師を巻き込んで休憩時間に賭けトランプをやったり、発売日のゲームを最短何時間でクリアしたかとかをクラスメイトと競うコアな遊びをしたりしてるのが日常の筈で。けれど、その脇では夜になると兄の呼び出しに応じて母親の目を盗んで手伝いに行ったりしてるのに。
 自分は、世間で言う「不良」なのに。

 死ニタイノ?

 言葉は、他の同じ年齢の奴らよりも多少は酸いも甘いも知っている真一を恐怖に陥れるほどの力を持っていた。
 抗えば、確実に死よりも恐ろしい目に合う。

 死にたくない、死にたくない、助けて!

 ここで眠っている間、まるで揺り篭に収められた赤ん坊の様な感じだろうと思っていた。
 泣いたり叫んだりなんて事は出来ないし、手足どころか瞼さえ開かないけれど。それでも、少なくともミナモが噂する「尾崎真一」の噂話や泣いていた「母親」とか言う人を見る限りろくな人生を歩んでいないのだろうと思っていた。患者の過去は、本来外部から余計な知識として植えつけて記憶の書き換えが行われる事は防がなくてはならないのだが、それでもどうしたって患者の耳に噂は入る。

 逃ゲナヨ……。

 安全だと、確実だと、絶対に大丈夫だと無意識で信じて、思い込んでいた。
 けれど、それは夢だった。
 知っていたけれど。

 戦イナヨ……。

 知っていた?
 逃げたかった、逃げていたのだと知りたくなかった。けれど、現実はあらゆる方面から触手を伸ばして真一を絡め取り、そして消えて行くことをまざまざと見せ付けられた。
 そう、見えた。
 見てしまった瞬間、湧き上がった疑問は塵も残さずに霧散していた事に気づかず。

 た、戦うったって……俺、怪我人……!

 恐怖は、焦りと弱い自分自身を呼んだ。
 きちんと冷静な判断力があれば、それは大した問題にはならなかったのかも知れないと思うけれど。

 ジャア……。

 許して欲しいと思ったら、それは弱い事になるだろうか? 色々と鍛えられた関係で拳とか腕っ節とか、足とか体捌きには自信があるけれど。これはそう言う部類の問題ではなくて、あえて言うのならば火と水ほどの違い。

 ソレナラ……。

 助けて、助けてください。許して下さい。
 お願いです、どうか見逃してください何でもします何だってするから、だからお願い!

 ふと、そう言って全身を汚いものでまみれているのに。全身を傷だらけになって血とか汗とか涙とか唾液とか、泥とかホコリとかで滅茶苦茶になっているのに。それでも馬鹿馬鹿しいくらい一生懸命になって、蹴りつけられてたまに殴られて、それでも汚れた地面に這いつくばって許しを請う姿を思い出した。
 今の、自分自身とどこが違うのか判らない。

 死ネバ?

 本当に怖い事とは、違うのだと言う事を刻み込まれた気がした。どこに、肉体に?
 それは違うと思った、幼い頃からの習慣が抜けない、抜け着れない様に刻まれるのは。
 魂だ。

 いやだ、どうして俺が? なんでそんな目に合わないといけないんだよ。助けてよ!

 理不尽と言う言葉が頭の中に浮かんで、風に溶ける淡雪のように消えるのを何となく理解してしまって。
 その言葉の意味を考える前に、もう次の言葉がどんどん押し寄せてきている事にも気がついて、それでいて。

 死ニタインデショウ?

 声が、どこから聞こえているかなど最早どうでも良かった。それがどんな言葉で脅してきても、こんな苦痛は覚えるはずがない気がしたけれど理由を考える前に思う。

 お願いだから、どうか見捨てないで。

 けれど、それが一番強い感情とせめぎあって本当に一番だと言う事になるのかどうなのか判らない。すでに混乱して脳髄は、決して冷静な判断力など与えてはくれなかったから。

 やだ、死にたくない。死にたくない!

 殺スノニ?

 違う、俺じゃない。俺は殺してない!

 拳銃デ撃ッタノニ?

 だけど当たってない、あれは反動が強すぎて俺の方が死にそうになっただけで!

 嘘。

 それは、同時に落とされた言葉だった。
 自分自身と、見知らぬ。けれどここ暫く「時間」と言う概念を失っていた自分自身が、初めて対話出来た存在だと言うのに。けれど、その存在と相対することなど圧倒的な何か強い。力の様なものに簡単に押しつぶされてしまっている自分自身を認識してしまって。

 ソレナラ。

 声は、それまでとは少し違っていた。
 揶揄する様な雰囲気や、空気をまとっていたのはまるでマントの様だったけれど。それを自ら剥ぎ取った存在の声は、まっすぐにこちらを貫いている様な気が、した。

 イケ。