断続的に続く音は、何かに似ている。
 それが、最初に思ったのは哲学的だと後に言われたけれど。本当にそう思ったのかどうか、それはよく判らない。
 ただ、あやふやだった何かがやっと塊になってどかっと落ちてきた。まさしく、そう表現するのが一番ぴったり来ると思ったのが、そう言う感じだったと言うだけの話なのは確かで。

「……!」
「……、……」

 何か。
 それは気配。
 誰?
 人?
 違うの?
 動いている。ムーヴメント。
 敵? それとも?

「若いというのは素晴らしいね、そう思いませんか? 羨ましいよね、静流?」
 どれくらいの時間がかかったのか、理解は出来ない。最初に感じた「何か」があってから、多少の時間はかかったもののすぅっと何かが解けて吸収されて消えて行く様に。
「何をオジサンくさい言い方をしてるんだか……そんなんじゃエセ神父臭さがもっと浸透することになるぞ、私は構わんが」
 ある日、突然の理解を認識していた。
「あ、イヤだなあ。そんな言い方しないでよ。
 大体、我々に比べれば彼ら一0代って若々しさの象徴じゃないですか?」
 目は開かず、声は出ず、手足は動かず、意識と記憶の混濁によって己が人の五体を持つ形状をしているのだと思い出したのは、果たしてどれだけの時間を費やしたのだろうか?
「肉体年齢だけで物事を図るようになったらオシマイだと私は言っている……それで。
 患者の様子は? 連れ込まれた私はいつから仕事に取り掛かれば良い? 長谷岡先生」
 片方の声は少しおちゃらけの入った男性のもので、少し硬質ではあるが裏のありそうな気配がある。しかも、なんとなく違和感。
「静流さぁん、せっかく二人っきりなのにその態度ってないんじゃないの? 幾ら最終的に部署が違うとは言ってもさ、足掛け一4年か? 同じ場所に居た同士じゃないの。我々」
 もう片方も硬質ではあるが、それはどちらかと言えば凛とした強さを伴った女性の声。
 こちらは、えらく真面目な感じがした。
「情けなくも間延びした声などを出しているものではない、エセ臭い神父のくに……遼。
 貴様はそれでも一応なんだかんだで有数の外科医なのだし、患者も居る。二人きりではない上に患者に貴様の本性を見抜かれて影響が出たらどうしてくれる? ケアは私の担当だと言うのに、腐れ縁の同僚に足を引っ張られるなど御免こうむる」
 何やら、男女のカップルの筈がずいぶんと男前な会話が続いている様な気がして。
 はた、と気づく。
 と言うよりも、気づいた時点で己の思考回路がほとんど停止状態だったのだろうと思う。

 何が、あったんだっけ?

「嬉しいなぁ、静流さんは有数の優秀な外科医だって認めてくれてるんだ」
 質問ではなく、口調と声のトーンは確認のそれで。言っている内容は何やら甚だ馬鹿馬鹿しい様な気もしないでもないのだが、それを理解するには頭の回転数が足りていないのだろうと思った。
「ばか」
 癖、なのだろうか?
 人を蔑む筈の言葉は、違う印象を持って女性から男性に向けられている。
「私は実績と性格について混合する趣味はない、故に貴様の実績と痴態については判断を別種としているに過ぎない」
 頭上で交わされている会話は左右交互から聞こえてくる、気がする。正確には、耳が本当に彼らの声を捉えているのかどうかすら自信がなく。それは偏に二人の会話以外の音が全く耳に届いていないと言う事を朧気に感じ取り。自覚をすると共に、ぶーんと静かで低い電気信号の様な音が耳に届くようになり。
「痴態って……静流さぁん?」
「うるさい、黙れ。このエセ神父」
 思いっきり前言を撤回したくなったのは、彼女の物言いがあまりにもきついく感じるからだ。まるで日本刀で袈裟切りにでもされているかの様……もっとも、相手も慣れているのか飄々と交わすのは余裕さえ伺える。
「黙っちゃうと、ミーティング出来なくなると思うんだけどさぁ。それってどうなの?」
 その「余裕」の部分で彼女はそれだけ引っかかっているのではないだろうか? とか冷静に判断してみたが、ここで入れる事が出来るツッコミなどあるわけがない。
「仕事は仕事だ、きっちりと果たして貰おう」
 四肢を感じる事も出来ぬほど力も、入らないと言う状態なのに何をどうしろと言う?
「うわぁ、静流さんってば真面目だなあ」
「貴様が不真面目なだけだ」
 何やら、そこまで話が進んでから思った。
 どうして、自分自身はここで二人の間で挟まれていなくてはならないのだろうか?
 なんだか、別に自分自身が二人の間に居なくても話くらいどこか他所でやってくれないだろうか?
 ああ、でも。
 同時に、思う。
 彼女がピリピリした感覚を持っている、それが空気に乗って全身に届く。こちらに向けられている意識と、対面しているだろう彼に向けられている意識はどちらがより多いのだろうか?
 これは、恐らく彼女の処世術であり。
 そして、恐らくは彼の処世術なのだ。
「患者さんの怪我そのものは一ヶ月程度で多少動かせるかなあって所だね。手術も割りとうまく行ったと思うし」
 確か、この男は外科医だと言う話なのだが。幾ら患者が身動きの取れない状態だからと言ってそんな事を目のまで言っても良いものなのだろうか……なんとなく、顔が見たいと言う衝動にかられて。
「割とか……それで一月前後ならば割りと普通だな。何かあるのかと思っていたが……」
 愕然と、気づいてしまった。
「何かって? やだなあ、俺ホモの趣味はないよ? まあ、来るものは拒まずって主義ではあるけど。牧師だから結婚出来るし」
 見えていない、もしくはこの状況を見ていないと言う事実を。
「やかましい、この節操なし」
 見えていない、眼球で世界を取られていないと言う事実を前に愕然とはしたけれど。耳は聞こえているのだから、まだ少しほっとする……のだろうか? 本当に?
「まあ……何もないと言ったら嘘ですよ?
 おかしな点は幾つもありますからね、普通の面からも。裏の面からも。あの人からも。
 どちらかと言えば、問題になるのはこれからだと思います。と言うよりは、常に問題があるとすれば『これから』と言う事ですが」
 とは言うものの、一体頭上で繰り広げられる夫婦漫才にはいつまで付き合えば良いのだろうかと言う疑問は、あったりする。
「面倒は、いい加減にしてもらいたいものだな……私の時間は有限だと言うのに」
 ため息交じりの声の中、かすかに聞こえるのは何の音だろう? かさかさと、それは機械や電機ではありえない音。
「いや、無理でしょう。
 この複雑骨折1、単純4、内臓破裂していないのが不思議なくらいだし。打撲や切り傷、擦り傷に至ったら全身くまなくって感じだし。火傷とかもあるわけだし、なんて言うか……ぐるぐるで面白いね?」
 いかにもうんざりと言った女性の声とは対照的に、男性の声は何やら面白い遊びでも発見したかの様な陽気ささえ伺える。
「場所、傷、彼……これだけで問題になるのは十分だよねえ? いやあ、楽しみだ」
 何だろう?
 それが、最初に浮かび上がった言葉。
 最初に二人が言った「医師」と言う言葉が正しければ、ここは病院で身動きが取れない自分自身は患者だ。
 肉体は読み上げられた行が進むたびに顔をしかめたくなるし、全身が何かに圧されているかの様に重く苦しい。
 なけなしの意識的知識に判断をゆだねて見ると、どうやら麻酔が効いているせいで身動きが取れないのだと言う結論に達して、沈む。
「彼の事、これからどうする? 支倉センセ」
 落ち込むと言ったほうが正しい意識は、彼の。長谷岡遼と言う医師の言葉に、余計に重圧が嵩んだ様な気がした。
「どうする、とは?」
 女医の、支倉静流と言う人物の声は凛とした態度のままで最初から変わらず。一辺倒と言えば聞こえは悪いが、ビジネスライクだと言っても大差はない筈だ。
「だからさ、これからだよ」
「仕事をするだけだが、何か問題でも?」
 言う方は意思が伝わらないもどかしさを、言われた方は何を当然の事を、と言った風に聞こえるのが対照的だ。
「警察沙汰になる様な子供を相手に、それでもきちんと治療するつもりがあるのかって。
 そう言う話……俺はまだいいよ? 色々あるしね、院長もその辺りは承知済みだし。
 でもさ、静流は……違うし」
 言葉の端々に、長谷岡は支倉の事を案じているのだと言うのが第三者の視点からでも感じる事は出来た。よくは判らないが、状況はあまり楽観出来るものではないと言う事だけは判る。どちらにしても、警察に関わってろくな事があった試しなど思い出せない。
「馬鹿か、貴様」
 思い出せない?
「馬鹿って言う方が馬鹿だと思うんですけど、静流さん……第一」
 あからさまに心配しているのに、それを正面から振り払う言動をする男前な声に、流石に長谷岡も少し機嫌を悪くした様だ。
「第一、貴様は何のために医師をしている?」
 第一、と言う言葉の部分がシンクロした。
 なんとなく、それは少し羨ましい気がした。
「全ての始まりはそこにあり、全ての答えはそこへ帰結する……どんな背景があろうと、それが医師としての仕事に何の関係がある?」
 だからこそ、私は直接人を殺せるセクションには入らないのだよ。間接的には殺せるんだろうけれど、少なくとも良心は痛まない。
 続いた言葉は、かなり物騒な気がした。
 殺すとか殺されるとか、それは一体どこの世界の話なのだろう?
「もしもお金のためだって言ったら、どうする? これでも牧師やるのって意外とお金とかかかったりするんだよ?」
 少しだけ、ちゃかした部分が消えたのが判った。もしかしたら、表情もその分だけ引き締まったものに変わったのかも知れない。
「はっ、馬鹿馬鹿しい……」
 男前な台詞を吐き続けてきた女医は、やはり男前な台詞で締めた。
「愚問だな」

 ところで、どうして愚問なのか聴いても良いですか?
 なんて、返事は無かったけれど。