一人の、少年の話をしよう。
 少年の名前は、尾崎真一と言う。読み方はそのままオザキ・シンイチで、中学生にしては顔だけ見ればモテる部類の中学生だ。
 着崩した制服も、決してマイナス要因にはなっていないし元々色素が少な目なのか茶色の瞳も髪も本人の知らない所で女生徒に黄色い声で喜ばれている。年上の兄や夜の商売な母親の影響か人との関わりや、接し方については手馴れたものがあって判らない人には違和感を感じさせない程度の所作もお手の物だ。
 成績だって、それなりに悪くはない。このまま進めばある程度良い公立高校には平気な顔をして入れるだろうと思われているし、実際に母親なんかは「もう少し頑張ればもっと上の学校も目指せます」と言われた時には年甲斐も無く涙を零したくらいだ。
 けれど、残念ながら少年は知っていた。
 母親が求め、期待すればするほど。その逆転を狙う者が存在しているのを、幼い頃からの記憶として受け継いでいた。叩き込まれて、それは言い分を変えれば洗脳されていたと言っても過言ではない。
 その為、少年はどこか違っていた。
 周囲の少年少女が無邪気にゲームや日々の瑣末な出来事に本気になって言葉を並べるのを、まるで絵空事の様に見つめている自分自身を知っていたし。表面上は周囲にあわせている自分自身のことを難しい言葉で「偽善者」と呼ぶものなのだと、思っていた。

「また来たの……?」
 いつか、声が届いたのは放課後の教室。
 すでに太陽はその姿を隠し、生徒達は早々に帰宅したり部活動に勤しんでいるだろう。
 中には無意味に居残りをする者もあるだろう、少なくとも真一は。その、最後の部類に属していた。
 自宅に帰った所で一人だし、中学生の身の上では自由になる金銭など大した額ではない。
 悪意ある噂では真一が他校生を相手に恐喝をしたなどと噂される事もあるが、そんな事は身に覚えがない以上は事実無根と言う事で無視することにしている。
 もっとも、兄の勧めで出入りしている暴力団事務所では色々な意味で可愛がられている……とは言っても別に苛められているとかではなく、ある程度は年の行った窓際族にしか見えない幹部の方々から様々な知識を知恵袋から大学院レベルまで教えて貰っていると言う所だ。小遣いだって中学生には過ぎた金額のものも貰える事もあるが、それを兄に知らせないでいると報復があったりするので貰っても貰わなくても面白くない事にはならない。
 どうせ、兄に知られればお金など取り上げられるに決まっている。それを言いくるめて手元に置く事だって出来ない事ではあるが、そんな事に労力を使うのは飽きていた。
「ご迷惑でしたでしょうか?」
「うん、結構」
「第三者の介入は見受けられませんが?」
 心の底から、うんざりにも似た想いがわきあがるのを感じた。
 何故、掃除当番に追い出されたからと言って手ぶらで教室を出てしまったのだろう?
 手ぶらで教室を出ると言う事は、鞄も教室に置きっぱなしだと言う事だ。同時に、持ち帰る為に一度は教室に戻らなくてはならないと言う事だ。持って出れば、少なくとも教室に足を踏み入れなおさなくても良かった。
「甘いなあ、今日びは壁に耳あり障子に目ありってなもんだよ?」
 声は、聞いた事があるものだ。
 片方は普通の少女のものだがイントネーションなどから特有の人物を思い出させる……確かクラスメイトだった様な気がする。親しいとは言わないが、だからと言って率先して少女を苛めているグループとは関わらない。
「優子様……」
 そう、彼女は神河優子と言ったと記憶した。
 読み方はコウガ・ユウコで普通と言えば普通。特にこれと言った特徴がない筈なのだが、何故か彼女と接触した多くの人物が多少の恨みを覚えてしまうと言う性質を持ち、しかもそれが言われた方にしてみれば「最も言われたくない」部類だったりする図星ポイントだったりするので、よくも悪くもタイミングが悪いと言う人物だ。
 しかし、案外こう言う人物こそ世間には必要な場合もある事を成人もしていない子供と呼ばれる部類の人種に理解出来る筈もなく。
 故に、異質さだけが悪目立ちする優子はクラスでも苛めの対象となっている……とは言っても、一時期ほど酷くはなく肉体的ないじめや所持品を触ったりする事はなくなった。
 ただ、優子を避けるだけだった。
「別に忍の事を信用していないわけじゃない、と言うよりも甘えてしまいたくなるから困る」
 しかし、優子は逆転的発想と言う手段を用いて強かった。強くなった。
『他人がこちらを避けるのならば、利用してやればいい。それだけで済む』
 普通、そう言う決定を思考回路は出さない。
 仮に本人の中でどれだけの葛藤や、紆余曲折があったとしても本人の中でだけ行われた事ならば、それはどうしようもない事だ。
「宜しいのですよ、甘えていただいて……」
 優子と対する声は、それはそれはうっとりとしてしまいたくなる声だ。しかも、その声の持ち主が同年代の筈なのに艶やかな美貌と明晰な頭脳の持ち主である事も知っていた。
「だから、ね?
 甘やかされて、結局そっちの手の内に落とされたくないんだってば、何度も言うけど」
 彼の出現は、様々な方面に波紋を呼んだ。
 意外なことに、真一の出入りしている事務所にまで影響を及ぼしたときにはどうしたものかと思った。驚いたと言うより、現実味がないと言うのが感想だったのはどうしたものかと言う気もするのだが。
「優子様……表現方法の訂正をお願い致したく思いますが、よろしいでしょうか?」
 この、一見すると主従関係ごっこをしている恋人同士の様な会話は。
 実は、ほんまもんの主従関係だと主張するのが見目麗しい男の方で。
 おかげで、否定している彼女は以後になっていじめが再発していると言う事実があった。
「よろしくないです、事実だから」
 ファンに言わせると「憎らしい、あの女!」と言う事になるらしいのだが、本人が至ってへろへろしている様に見えて。ついでに「学校に来るの禁止!」とか公衆の面前で堂々と言っていたのは、確かつい先日の様な気がする。調度、その時には真一もその場に居合わせたせいで遅刻したと言う経緯があるから記憶しているのだが、そうでも無ければどうって事ない一日の筈だ。
「優子様……どうか、お願いです」
 お前ら、とっととくっつけ。
「やだって言うか、人の主張くらい聞け」
 真一の立場からすれば、諸手を揚げてそう言うことも出来る。興味がないからだと言うのが最初に来るからだし、降りかかるわけでもない火の粉をわざわざ掻き分けるのも馬鹿らしいとしか言い様がない。
「ほんっと、その顔で落とされる女性達が哀れでたまんないよ……と言うより、その場合に置ける最大の被害者ってこっちだったりするのにすっごく理不尽を感じるんだけど」
 と言うより、どっか行け。
「でしたら、私がその輩をどうにか……」
「しなくていい、って言うよりスルナ。
 混ぜるな危険って言葉はあるけど、寄るな危険なんて台詞が発電所とか工事現場以外で使う日が来るなんて思ってなかったし」
 くっつくとかくっつかないとか、生意気だとかそう言う関係で言い合う生徒や外部の人たちを見て、正直「いいな」と思わないでもない。どこまで本気かは知らないが、少なくとも表面上の彼らは心から喜怒哀楽を表現している様に見える。
「優子様……そんなに拒まれるのは何故、とお聞きしても宜しいでしょうか?」
 けれど、真一にはそれがない。
「あのねえ、僕これでもまだ親に養われてる身の上なんだよ? 幾ら君がうちの両親説得するとか言っても、今の学校を卒業くらいさせてもらっても罰は当たらないと思うし、予算とか予定とか……」
「私の方で全て、処理させていただく事も辞さないとの事では、いけませんでしょうか?
 いずれにせよ、この環境が優子様にとって過ごしやすいものであるとは思われません」
 喧嘩などで面子に入れられた時、一度は周囲に止められるほど蹴りを叩き込んだ事もある。そのおかげで今のアウトローっぽい状態でも誰からも何も言われないと言う特典がついているのだが、だからと言って放課後の教室デートに踏み入るほど平気な顔など出来る様な特殊スキルは持っていないのが悲しい中学生と言った所だ。
「いいじゃない、どうせあと一年ちょっとはこの状態なんだよ? 向こうの方にだってちゃんと出入りとかはしてお手伝いはしてるんだしさあ。僕だって色々と自分で果たしたい都合とかってあったりするんだって、何度言ったら判ってくれるわけ? 理解出来るの?」
 話がこじれて来たとは思うけれど、鞄を持ち帰らないと母親が心配するから困る。
 返す返すも、どうして教室を出る時に鞄を持って出なかったのだろう? 
「ですが、あまりにもこの場所では無防備すぎます。優子様、まさかとは思いますが奴らの囮となるおつもりなのですか?」
 盗み聞きするスキルは、実は事務所の老人達から教わっていた。現金などを貰うと兄に奪われる事を知っている一部の老人達は、それならばと現物支給やスキル習得に切り替えてくれた。おかげで、囲碁や将棋からピストルの扱いにかけてまでそこいらの中学生に負けるとは思わない様になっていた。
「まさか! そんなつまらない事をする気は全然ないよ、ただ……こう言うのって卒業したら、もう。無理、だから……」
 どう言う事なのだろうかと、疑問は沸いて出てくる。別に聞くつもりは無くても、こうして待っている以上は教室の扉が開いていて外まで聞こえる声で会話されていてわざとらしいまでにテンションが上がったり下がったりされると「聞くな」とか言われても無理だろうと言うのが正しい客観的な見解だ。
「そうですか……確かに、囮となるのでしたら技とらしいほど豪華すぎて罠があると思われても致し方の無い事ではありますが……」
 囮、しかも豪華な囮。
 一見すると単なる肥満女子中学生でしかないのが、神河優子と言う少女だ。内面や性格に関してはよく判らないが、逆境に対して耐性が着くのは早いのだろうと言う気もする。
「そこまで考えてなんて、いないよ……」
 並みのあるエスカレートする苛めに対して、柔軟どころか真っ向勝負と言う見方も出来る対応に関しては薄ら寒気すら覚えた事もある。
「でも、可能性は否定しないけど」
 恐らく、少し困った笑みを浮かべているのだろうという気が、した。
「でしたら、一刻も早く移られるべきです。
 優子様、御身をもっと大事になさってください。私には、貴方しかいないのです……」
 悲痛そうな声は、聞いているだけでも同情したくなる。と言うより、どこからどう聞いても告白以外の何物でもないだろうと言う気がするので心の底から困る。
「でもさ、まだ見つかってないのもいるけど皆だっているんだし……」
 困った声は、一体何を思って紡いでいるのだろうかと言う気が。少し、した。
「違います、彼らは……貴方とは比較になりません、優子様とは絶対的に違います。
 彼らは、私も含めて幾らでも取替えが……」
 取替えが効く、と彼は言いたいのだろうと言葉の先を予想していた。
 けれど、その問題に対する答えは出ない。 恐らくは、永遠に。
「何言ってるんだよ!」
 もしも、とふと思った。
「僕は……イヤだ」
 以前あった、ある事件がある。
「誰か一人でも、いなくなるのはイヤだ!」
 理由はよく判らないが、優子はクラスメイトで身長の低い男子生徒を相手に乱闘をやらかした事がある。とは言っても、別に殴ったり蹴ったりしたわけではないし、大泣きをしながら、しかも相手に怪我をさせないように振り回した事もあって教師はお咎めなしにして「泣けばいいと思ってる」と優子は言われた事がある。
 クラスメイトの陰口に対して、彼女は何一つ否定はしなかった。肯定すらせず、ただ涙を流してしゃくりあげているだけだった。
「忍だって皆だって、辛かったり悲しかったりする様な顔はしてほしくないよ……!」
 それを聞いた時、怖かった。
「僕だけ何も出来ないで見てるのも、僕のせいで誰かがどうにかなるのだって……イヤだ」
 あの日は授業をサボって兄関係の手伝いをしていて、だからその現場にはいなかった。
 だから、乱闘をした筈のクラスメイトから「こんな事があってさ」みたいな話を言葉の端で聞いただけで、それでも思ったのだ。
「だからと言っても、御身を投げ出すのは早計であると……山中さんが居なかったら、どうなっていたと思うのですか?」
 つまり、真一を含む男子生徒ならば乱闘になった場合相手を叩きのめすまでやるのに。優子は相手を怪我させない様にしたのだ、しかも自分自身の為ではない別の怒りを持って。
「だって……だって、やだもん」
 テンションの下がる声は、泣く前の音だと知っている。本人としては堪えているつもりなのだろうが、恐らくはすでに涙などぼろぼろ流れているのだろう。
「優子様……申し訳、ありません」
 会話の内容は、はっきり言っていまいち判らない。判る事があるとすれば、この二人には恋愛感情と言う意味での関係は皆無に等しいと言う事だ。しかも、かなり物騒な状況がてぐすね引いて待っているというところなのだろう。真一には無関係なのが救いだが。
「ですが、これだけはお忘れ無き様お願い申し上げます。他の者は計り知れませんが、少なくとも私は貴方の為だけに存在しているつもりです。貴方が心健やかに過ごしていただけるのならば、何者をも敵に回す所存です」
 お前、一体何歳だ?
 ついでに言えば、どこの何様だ?
 ああ、そう言えばどっかの金持ちだか財閥だかのお坊ちゃまだっけ?
 そうツッコミが入ってもおかしくない言動をしているのが、壁のこちら側でも想像がついたし。相手は泣くのを止める事で精一杯でそれどころではないと言う感じだったし、それを黙って聞いている真一自身がどうなのだろうかと、思ったのは確かだった。
 だから思ったのかも知れない、自分自身の肉体には開いていない風穴に吹き荒れる風を感じて、何かを求めている自分自身を発見して、故に日々をぼんやりと過ごしていたに過ぎない。本当に「生きている」と言って良いのか自分自身でも計り知れない日々の中で。
 確かなのだけれど、この二人が少しして去ってから鞄を手にして思ったものだ。

『ああ、何か面白いことでもないかな?』

 と。